「あなたは今、幸せですか?」

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『あなたは今、幸せですか?』 そんな問いに、あなたならなんと答えられるだろう? 「幸せです」と、答えられるだろうか? 私はーーーーーー……。 その手紙がポストに届いたのは、入社八年目。 仕事では後輩を育てる立場になり、長く付き合っていた彼氏とも結婚して、既に子供は二歳になっていた。 気が付けば、私の年齢は三十を超していた。 見覚えのある、封筒。 見覚えのある文字で、私の名前と住所が書いてある。 差出人のところには、名前だけ。 リビングに着くなり、通勤バッグをそこら辺の床に置いて手紙を開封する。 便箋は二枚に渡っていて、そこには簡単な挨拶や近況、それから、私に向けたいくつかの質問が書かれていた。 「貴女」と、私の事を称しているその手紙の、最も胸に突き刺さった言葉こそ、それだ。 『貴女は今、幸せですか?』 期待と自信の籠った言葉だな、と思った。 二十一頃の、期待でキラキラと光っていたであろう、かつての自分の眼差しを想像する。 そう、これは。 十年後の、自分に宛てた手紙。 『十年前の私』は、どんな想いでこの手紙を書いたのか。 それはもう、手に取るようにはわからない。けれど、想像ならつく。 わりと自信家だった私は、自分の明るい未来を確実なものだとイメージしていた。肯定を疑わない、メッセージ。 バリバリ仕事がしたい、と思っていた私は、あまり結婚願望が無かった。 けれど、結婚し、出産をし、現在は時短勤務で働いている。 目まぐるしい毎日を、田舎の中小企業で送っていた。 本当は、都会で働きたかった。 本当は、心理学を生かした仕事に就きたかった。 …ごめんね。 かつての私が『今の私』を見た時、やっぱり、失望してしまうような気がして。心の中でつい、謝ってしまう。 貴女の想い描いていた幸せには、辿り着かなかったよ。と。 「……あっ、やば!もうこんな時間じゃん…!」 時計を見て、つい、大きな一人言を言ってしまう。 帰宅したらいつも、ラフな格好に着替えて、米を研ぐ。炊飯器をセットしてから、ベランダへ行き、洗濯物を取り込んでから、味噌汁を作り始める。味噌汁を火にかけている間にメインを調理し、メインを煮込んだり炒めている間に、サラダを作る。勿論、洗い物は同時進行だ。 しかし今日は、洗濯物を取り込んで、米を炊いて、家を出た。 預けている保育所は、短時間保育で十六時半までに迎えに行く必要があった。 本来は退勤後、真っ直ぐに迎えに行かなければならないのかもしれないが、私はある程度の家事や晩御飯作りをあらかた済ませてしまってから、ギリギリの時間で保育所へ迎えに行った。 『時短勤務なんて、いいね』 と、言われたことは無いが、会社ではその制度活用の第一号となった私の事を、きっと誰かはそう思っているだろう。 まさか! 思っている人が居るなら、是非、口に出して欲しいと思う。 どんなに、 どんなに、…大変だと思う? 沢山の苦労を並び立てて、反論する準備は完璧だ。 私は少し、時短勤務にしたことを後悔していた。 子育てにもし、向き不向きがあるのなら、きっと私は、向いていない。 仕事をしている方が、楽だった。 「マッマ!マッマ!」 迎えに行けば、保育所の先生に連れられて出てきた娘は、とっても嬉しそうに笑う。 この瞬間は、確かに癒しだ。 簡単な連絡事項やその日の事を保育士さんと話して、駐車場に行けば、一気に子育てのストレスが始まる。 そう。車に、乗らない。 チャイルドシートは嫌だと身を捻り、泣き喚き、叫ぶ娘を、何とかチャイルドシートに縛り付けて車を出す。 お迎えに来てから既に、四十分が経過していた。 保育所から自宅であるアパートへ帰る道のりにかかる時間よりも長い。 車の中で娘の泣き声を聞くのは、ストレスを助長させる。 帰ると、「ママ!抱っこ!」と、ママ!ママ!と泣く娘を少しほったらかしにしたり、抱き上げたりしながらご飯の準備をする。 娘は用意されたご飯を食べたり、泣き喚いて食べなかったり、その時々で変わる。 ご飯を食べずに、泣き喚いてどうしようもない時は、身も心も、ボロボロだ。 どうして誰も、助けてくれないんだろう…。 と、思う。 時短勤務にしていなければ、そろそろタイムカードを押すような時間で、今は車で保育所に向かっている頃だろうか? もしも時短勤務になんてしていなければ、この時間にこんなストレスを感じて居なかったのだな、といつも考えてしまう。……勿論、このストレスが後ろに二、三時間ずれるだけだが…。 娘に何とかご飯を食べさせ、少し一息したところで、旦那が帰ってくる。 そんなに遅い帰宅ではない。なんなら、待とうと思えば、晩御飯を家族で食べられるような時間にいつも帰宅する。だが、子供が早くご飯を食べていた方が機嫌がいいので、旦那は待たずに先に食べさせるようにしていた。 旦那が帰宅すると、「一息」はおしまい。 旦那のご飯を準備し、配膳する。 旦那が手を合わせてからやっと、私もご飯が食べられる。…それは、娘の食べ残したもので、キッチンに立ってさっと食べてしまい、その場ですぐに洗い物をする。 「座って食べないの?」 と、旦那は私に声をかけない。 私がリビングで座れば、娘が寄ってきてなかなかご飯を食べられたものでは無くなることを知っているから。 時短勤務で帰社したって、リビングで腰掛けるのは、いつだって旦那の方が先だ。 旦那がテレビを観ながらだらだらとご飯を食べ、食べ終わればソファーで寛いで、やはりだらだらとスマホゲームに興じている間に、私は娘の相手の合間を見て、風呂掃除をしてお風呂を沸かす。 お風呂が沸けば、旦那が先に入り、子供をお願いする。 「……………はぁ、」 そこで、やっと。もう一度、束の間の「一息」。 誰も居ないリビングが好きだな、と点けっぱなしになっていた興味の無いバラエティー番組をぼんやりと観ながら、思う。 日々、あっという間の時間は、息を吐く時間さえなかなか見当たらない。 もっとゆっくり、一人で、のんびりと過ごしたいな、と毎日毎日、思う。 『貴女は今、幸せですか?』 手紙に書かれた、自分の文字を思い出す。 幸せ…。かなぁ……。 結婚して、出産して。 それは、傍目から見れば、「絵に描いた幸せ」。順風満帆のように見えるかも知れない。 だから、「幸せです」と、即答できないことは酷く後ろめたいことのように思った。 旦那や、子供、それから、周りの…まだ結婚していない友人や、子供に恵まれない友人に対して。責められるべき感情だと、思った。 …否、結婚や子供が居ることが、何も、「幸せ」の全てでは無いのだけれど…。そう思うことでさえも、やっぱり、失礼だったと思う。 「ママー!お風呂終わったよ~。着替え持ってきて~」 「……はーい」 自分がお風呂に入る前に娘の着替えも用意してくれたらいいのに、と毎晩思う。スマホゲームばかりして。 私が一体いつ、スマホを弄っているのか、彼は知っているのだろうか? お風呂から上がった娘の体を拭き、パジャマに着替えさせて、髪を乾かしたり歯磨きをさせるのは、また私の役目。 それから少しだけ遊ばせて、寝室で娘を、寝かし付けるのも、私の役目。 それからやっと、少しぬるくなったお風呂に入る。 …………あったかい、お風呂に浸かりたい…。 冷めてないご飯が食べたい。 もっと自分の時間が欲しい。 そんなことを思い始めると、つい、涙が出そうになる。 幸せか?と問う過去の自分に、「幸せの定義ってそもそもなんなの?」とひねくれて訊いてしまいたくなる。 「……ふぅ」 浸かれば浸かるだけ冷えていく体を抱き締めて、ぬるま湯からあがる。 髪の毛をドライヤーで乾かす前に、寝室から娘の泣き声が聞こえた。 「ママー!起きたー!」 「………はぁーい…」 まだ添い乳で寝かしている娘を、旦那はよく寝かし付けられない。また、それは至極当然なことで、かつ、それは私の仕事だと思っている。 濡れた髪をタオルで巻いて、寝室でまた添い乳をする。 「………………つらい…」 声がつい、零れた。 幸せか、なんて、問われたから。 尚更考えてしまって、辛くなった。 辛いんだと、自覚してしまった。 ああ、私。 毎日、必死で辛いんだな…。 「幸せ」には、棒が一本足りない。 家族がいるのに。 どうすれば、似通った漢字のくせに程遠い、「辛」いが「幸」せに、なるのだろう。 私が髪を乾かせないままであるのに、旦那は寝室にやって来て、先に寝る。 娘がやっとおっぱいを離して、私はすっかり冷えきってしまった体を震わせながら、洗面所で髪を乾かした。 家族が寝ている時間。 やっと、また、息ができる。 けれど、大体が娘を寝かし付けながら寝てしまう。朝にシャワーを浴びる羽目になったり、浴びる時間さえなく出勤したり。化粧だってもっと念入りにしたいけど、ファンデーションを叩いて、眉毛を書くだけで家を出る。 女として、終わってるな…。 私の自嘲的な苦笑いを見る人の居ない、薄暗いリビング。 家族が寝静まった時間は、電気代が気になって、リビングにある一番小さな電気しか点けない。 例えば、と。 妄想する時がある。 人はいつだってきっと、『選ばなかった方の未来』を、想像してしまうものだと思う。 例えば、 誰にも打ち明けたことはないが、私は女性も恋愛対象だった。…残念ながら、その恋は実った事が無いが。 女性をパートナーに選んでいたら、また違った日常を送っていたのだろう、と思う。 それはやっぱり、時々、想像してしまう。 男性脳と女性脳は違うのだと、新婚生活で感じて、出産してからもまた、強く感じた。 そんなギャップをきっと、感じなくて済んだのだろう。 結婚してしまう前に、その蜜を、そんな形の「幸せ」を、経験してみたかったな、と思ってしまう。 けれど、その先の「未来」では、 旦那と結婚しなかったかもしれない。娘には出会えなかったかもしれない。…と思うと、もう妄想は打ち切りだ。 今ある命の方が、大事だから。 過去の自分に向けても、手紙が届いたらいいのにな。 そう、思った。 そして、願うのは少しファンタジーな思考。 パラレルワールドと言うものは本当に存在していて、どこかの軸の私は、同性婚をしていたり、都会でバリバリ働いていたりして、「今?幸せですよ!」と胸を張って答えるのだ。 どこかにそんな自分がいるのかもしれない、と。 そう思えることがほんの少しだけ、支えになる。 そんな、『この軸』の『今の私』を、諦めた日々。 想像して、やっぱり、少し泣いた。 「幸せ」って、なんだ…? その日は、私にとっても家族にとっても、何の変哲もない一日だった。 …はず、だった。 カレンダーには丸も付いていない。何かの記念日ではない。 予定欄には、「旦那、有休」とだけ書かれていた。 いいな、有休。 憎たらしく、そう思った。 私の有休なんて、子供の看病や通院で、直ぐに無くなる。子供を産んでから、自分が休む為に使えた試しがない。 「では、ごゆっくり」 嫌みに聞こえないように気を付けたけど、どうか。 私は娘と一緒に玄関を出た。保育所に寄ってから、職場に向かう。 一日、何の変哲もなく過ごした。 仕事はいつも、一日のルーティンが決まっている。味気ない仕事だ。やりがいって何だ?と思いながら、給料の為に働いた。「正社員」にしがみついて、仕事を辞めなかった。 娘は旦那が迎えに行ってくれたらしい。 退勤し、スマホに届いたメッセージを見て、「有難い」と思ってから、「…ん?当然じゃないか…?」と思い直した。 子育ても家事も、あんまり協力して出来てない気がするのに、それが当たり前なんだと思い込んでしまっていたのは、私も同じ。 帰宅した時、やっと「今日は何か、いつもと違う」と思った。 まず、玄関に入ると、いい匂いがした。 お肉の焼ける匂いだ。 それからリビングの扉を開けると、直ぐに視界に入るキッチンのシンクには洗い物が貯まっていなかった。 「?」 今日は、何か、記念日だったのだろうか…? 一瞬考えたが、やはり、ただ平凡な一日だったはずだ。 「ママ!おきゃーりー!」 おかえり、と走って向かってくる娘に癒されて、抱き上げる。 「…どうしたの?今日」 そのまま、旦那の方を向いて尋ねた。 「何が?」 「洗い物、ありがとう」 「んー」 「ご飯も」 旦那は定位置のソファーから腰を上げ、キッチンに向かう。 私が手を洗って服を部屋着に着替えている間に、配膳される。白米、ステーキに、鴨肉とサラダ。 「………どうしたの?今日、なんかの記念日だっけ…?」 私は目を白黒させる。 どんなに考えても、◯◯記念!というような思い出は出てこない。 「………別に。有休だったし」 そんなぶっきらぼうな返事が帰ってくるが、夕食後にホールケーキまで出てくるものだから、私はもう、本当に何事なのかと、逆に不安になってしまった。 しかしその答えは、ケーキが明かしてくれた。 “愛妻の日”。 そんな風に板のチョコレートにピンクのチョコペンで書かれていた、小さなピンクのバラの花が一杯に散りばめられた、ケーキ。 いつもありがとう、と印字されたメッセージカードには、手書きのメッセージなんて何一つ無かったけれど。 「…………え、なに、どしたの、え、」 情報の処理が追い付かないくせに、目頭が熱くなるのを感じた。 「ママ、いつも、あっとお!」 タイミングよく、娘が「いつもありがとう」と頭を下げて、手を叩く。どうやら、私が帰ってくるまでに旦那と練習したらしかった。 涙が、溢れた。 「…………こちらこそ、ありがとう………」 涙声だ。 「……私、幸せ者だね…」 鼻の奥どころか、心の奥まで、ツンとした。 日々にあんなに疲れきって絶望していたのに、今、こんなにも幸せに溢れている。 …………単純。 意外と、「幸せ」なんて、そんなものなのかもしれない。と、思った。 きっと、「辛い」と思っているだけで。 足りない横棒一本は、水で浮かびあがる特殊なインクで書かれているのかもしれない。 本当はちゃんと、そこにあるのだ。 工夫してみないと、見えないだけで。 「ママ?いたいの?よしよし」 止まらない涙に、娘が頭を撫でてくれる。 いつの間にか、心優しい子に育っていた。 「………ここに、ちゃんと、あったんだねぇ……」 それは自分に向けた一人言で、旦那は何も言わなかった。 ぎゅうっと、娘の小さな体を抱き締めた。 家族でケーキを食べて、お風呂には先に浸からせて貰って。夜には、家族みんな、一緒に寝た。 布団に入って、心の中でペンを取る。 どんな書き出しにしようか、と思った。 結論から書こう。何事も、簡潔さとインパクトが大事だ。 “思い描いていた風な未来ではないけれど、 私はちゃんと、幸せだよ。” 過去の私へ向けた手紙。 だから安心しなさい、と付け加えて、目を閉じた。
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