バレンタインデー編

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 【2】  男だらけの虚しい菓子パーティも終わり、随分と軽くなったスクールバッグを肩にかけて、真人との待ち合わせ場所へ向かう。  二月に入って自由登校になったからか、三年のフロアには自分以外の姿は見られず、殺風景な空間が広がっている。昼間はまばらに見かけたが、放課後になるとさすがに残っていないらしい。  バレンタインデーに居残りしているやつなんて、よほど学校が好きか、部活の用事があるか、俺みたいに誰かを待ってるか、大方この三択だろう。  築数十年経ってる校舎は所々ガタがきているようで、どこからともなく入ってきた隙間風が頬を撫でていく。  教室内とは変わり、廊下は暖房が行き届いておらずひんやりとした冷気が充満していた。おまけに人が行き交っていないせいか、いつもよりも肌寒く感じる。  マフラーを口許に引き寄せ、ぶるりと身を震わせた。 「はぁ……」  吐き出した息が白く染まって宙に溶けていく。体の芯まで凍えそうな寒さだ。  ふと、口を開けたままのカバンに視線を落とすと、可愛らしい小袋が目に入った。  隅にちょこんと居座っているコレは、真人の分だ。今日の朝、妹に押し付けられるような形で渡してくれと頼まれた。  どうやら妹――七海(ななみ)は、真人を好いているらしい。  直接渡すのは恥ずかしいからと、目を伏せてボソボソ呟いていた。お年頃なのか、最近は真人と顔を合わせる度に一喜一憂している。  昔から見慣れている彼の顔だが、恋する乙女の瞳にはいつも以上にきらめいて映っていることだろう。  俺の妹まで虜にしちまって、まったく罪なやつだ―― 「(けい)ちゃん」  閑散とした廊下に男の声が響いた。  反射的に足を止め、後方から聞こえてきた声に意識を向ける。  真人だ。  小さい頃から何度も聞いてきた。この柔らかな物言いと耳障りのいい声質。それに俺のことをそう呼ぶのは、一人しかいない。  顔を確認せずとも、誰だがわかるほど鼓膜に染みついてしまった。  今日で何度目だろう。  毎度毎度呼ばれるたびに、またかとげんなりしていたが、実際に期限が迫ってみるとどこか寂しい。早く終わってほしいと願っていた頃が懐かしく思える。  返事を返さない俺にしびれを切らしたのか、再度「圭ちゃん」と呼びかけられた。  胸中に湧き出た哀愁を払うように失笑し、片足を引いて上半身を軽くひねり、背後を確認する。  くすんだ白いタイルの上に、長身の男が立っていた。  窓から差し込む斜陽がスポットライトのようで、彼の立つ場所だけが寂れた校舎から浮いている。  本来なら、こんな場所にいるやつじゃない。平々凡々な高校では、彼の人並外れた頭脳が活かされることはないだろう。 ――圭ちゃんと同じ高校だよ  そう聞かされた時は耳を疑った。  てっきり県内の進学校に行くものだと思っていた。  驚愕のあまり、その時食べていたクッキーを喉につまらせかけたのはいい思い出だ。  口では「またお前のお守りをするのか」と嫌味ったらしく言ったが、内心は「まだ隣にいられる」とほっとしていた。  なんでこっちを選んだのだろう。家から近いという理由だけではないはずだ。距離の近さで言うなら、某有名大学付属の進学校もそう変わらない場所にある。  理由をあげるなら……おそらく俺が思っているものと同じだろう。  いや、そうであってほしい。  真人とは、生まれた時から一緒だった。見た目も性格も正反対の俺たちだが、うまい具合に凸凹がはまり、足りないものをお互いに補って、常に持ちつ持たれつつの関係を続けてきた。  なんだかんだ言っているが、真人の世話を焼くのは嫌いじゃない。自負しているわけではないが、俺がいないとだめなところが彼にはある。  緩みかけた口角を引き締め直し、いつもと変わらない様子を装って踵を返す。 「意外と早く終わったんだな、真人」 「うん。困ってる俺を見かねた宇佐美(うさみ)さんが、手伝ってくれたんだ」  宇佐見とは、真人のクラスの学級委員長だ。俺と同じ調理部部員ということもあり、何かと頼りにしている。  真人は完璧で隙がないと思われがちだが、その実、肝心な中身は伴っていない。頭はいいのに妙なところで抜けていて危なっかしく、下手をすると乳児より目が離せない。  本来の姿を知っている三年からは、「母親と息子」と呼ばれる始末だ。誰が母親で誰が息子かは、もうおわかりだろう。 「おう、お疲れさん」 「ありがと」  ふわりと微笑み、頬に笑窪が刻まれる。  なんとまあ、男の俺から見ても惚れ惚れするほどに甘い笑みだこと。学校中の女子たちが、黄色い声援をあげて囃し立てるのがよくわかる。  今一度、俺より頭一つ分高い位置にある、彼の顔を観察する。  触り心地のよさそうな明るめの髪に、スッと通った鼻筋と、くっきりとした二重瞼。少し垂れた目許は、人懐っこい大型犬を想像させる。  浮ついた髪色をしているが、人を突っぱねない柔和な雰囲気をまとっているので、誰にでも好かれやすい。  現に、ポンコツとバレていない下級生からは熱烈な支持を受けていた。  さて、本日はバレンタインデーだ。  例のごとく、この男も大量の愛の告白……もといチョコレートを受け取っていた。  先程から存在を主張している紙袋に視線を移す。彼の身体の正面には、大きな紙袋が一つ、それを支えている両腕には、さらに二つずつの袋をぶら下げている。  もちろんのこと、それらには溢れんばかりのチョコが詰まっており、上部から飛び出ている箱は、どれもこれも有名なブランドのものばかりだ。  他の男ども――特にあのニ人――が見たら、さぞ悔しがるに違いない。 「……相変わらずすげえ量だな」  チョコの他に、自分のカバンも持ってるから余計にかさばってるな。 「ほんとにね」  アハハ、と真人は少し困ったように笑い声を漏らす。 「さすが我が校誇る王子様」  茶化して言うと、真人は頬をふくらませた。 「もう、圭ちゃんまでそんな風に呼ばないでよ」  リスのような顔で拗ねる真人が面白くて、込み上がる笑いを堪えつつ歩み寄った。 「わりぃわりぃ」  俺は、真人がと呼ばれるのが、あまり好きじゃないことを知っている。だが、わざと呼んだときに見せる表情が好きで、たまに意地悪をしたくなるのだ。 「ねえ、圭ちゃん……その、これ」  何か言いたげな様子で、真人がこちらを見据える。  単刀直入に言おう。  俺はこいつの瞳に弱い。  子犬のような淀みのない透明さを持ち合わせた瞳に見つめられると、なんでも言うことを聞いてしまう。  昔からそうだ。すがられると強く突っぱねられない自分にいい加減嫌気がさすが、結局断りきれずにずるずると今もこうして付き合わされている。  自分への呆れを含んだため息が、言葉とともに吐き出される。 「ったく、しょうがねぇなあ……持ってやるから半分貸せ」  ほら、と片手を差し出す。 「圭ちゃんありがとう……!」  ふにゃりと情けなく表情を崩した彼から、両手を占領している一番重そうなやつと、腕にかかっていた袋を二つ受け取って軽々と抱える。 「……まあ実際、お前は王子っていうより赤ん坊だしな」  なんてことを言いつつ、足を昇降口の方へ向ける。 「えぇ……それはいくらなんでもひどくない?」 「こんなもんも持てないような貧弱くんは、赤ん坊だろ」  または五歳児だな、と心の中でひっそりつけ足す。 「……ゴリラめ」  ボソッと呟いた真人が隣に並んだ。 「あぁ? 今、ゴリラって言ったか?」 「言ってないデスヨー」  嘘つけ。はっきりと聞こえたぞ。でもまあ、俺がゴリラのような強面なのは周知の事実だ。 「お前が非力過ぎなんだよ。握力なんて、乳児並みだもんな……なあ、?」  ニヤリと口の端を引き上げて、仕返しの一発を投げつける。 「なっ……!」  たちまち彼は顔を真っ赤にさせて、わなわなと全身を震え上がらせた。  "まーちゃん"とは、真人の母親――雪子(ゆきこ)さんが彼を呼ぶときに使っている呼称だ。  幼い頃ならまだしも、未だに真人はこの名前で呼ばれている。思春期真っ盛りの男子高校生が、小さな子と同じような呼称で呼ばれるのは酷だろう。  しかし、母親にとって子供はいくつになっても可愛いものなのか、一向に呼び方を変えることはなかった。真人は何度も「恥ずかしいからやめて」と抗議していたが、糠に釘の如しで、全く効果がない。 「……っんとに、その名前で呼ぶのやめて」  蚊の鳴くような細い声で言い、片手で顔を覆う。あーあ、耳まで茹で蛸のように赤く染まってら。 「なんだよ。精神年齢が五歳児並みのお前に、ぴったりじゃねえか」 「確かにそうなんだけどさ……!」  自覚はあるんだな。 「反射的に、前に呼ばれたときの場面を思い出して、恥ずかしさが蘇っちゃうんだよ……」 「……あぁ、あれか? 中学んときの授業参観とか?」 「そう! あの地獄の授業参観は、今でも覚えてるよ……」  手を降ろし、まだ赤みが残る顔でしんみりと語り始める。 「俺の発表の順番が回ってきたとき、母さんが『まーちゃん頑張って!!』なんて、みんなの前で大声で言ったもんだから……」 「あー……あったなそんなこと」  あのときは、教室がなんとも言えない空気に包まれていたな。女子たちは突然のことにポカーンとしてたけど、真人を敵視してた一部の男子どもは、密かに笑ってたやつもいたっけ。  学校では十全十美で通っている真人が、家ではそんな風に呼ばれていることが知れ渡り、しばらくの間からかわれていた。 「授業参観のあと、その呼び方が流行っちゃって、ほんとに大変だった……」  当時のことを思い出したのか、げんなりした様子で盛大にため息をつく。 「でも……」  ふいに足を止め、こちらを振り向きながら言った。 「圭ちゃんが助けてくれた」  真人が破顔する。 「……そうだな」  俺は、ふっと顔を背け、目線を手元のチョコに落とした。 「今年はいくつだ?」 「えーと……二百十八?」 「お、記録更新してやがる。お前も罪なオトコだなー」  うりうりと片肘で小突く。 「……特に貰えるようなことした覚えないんだけどなあ」  不思議そうに首を傾げる。自覚がないのがこいつのいいところだ。 「それはそうと、今年もなんだろ?」  ちらりと視線を配らせる。 「うん。よろしくお願いします!」 「おう、任せろ」
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