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「っていう話でー」
飲み屋がドッと笑いに包まれる。顔を赤らめた上司や同僚が気持ちよさそうに酒を煽る。
「いや、笑い事じゃないんですよっ!それで、俺、今家がない状態なんです!」
「そりゃ、やべぇなぁ」 「飲み会してる場合じゃねんじゃないのぉ~」
あはは、と笑いながら、ヤジを入れる輩はかなり酔っているだろう。俺がこんなにも苦労しているのに。俺もやけくそになって、近くにあったビールを飲み干す。
「誰でもいいから、きれいな家に泊めてください!!可愛い黒髪ロングの女の子が住んでる部屋がいいですっっ!!」
誰でもよくねぇじゃん~、このむっつり野郎~、と同僚に突っ込まれるが、頭をはたいて黙らせておいた。
飲み会が終わり、ふらふらとした足取りで店を出る。ぼんやりとした頭で、本当に今晩どうすっかな、と考えていると、不意に肩を叩かれた。振り返ると、黒髪のオールバックが少し崩れた髪型をしている男性が立っていた。
「麻井主任…!」
「笹橋君、あの、今晩のことなんだが、本当に行くとこがないのか?」
麻井主任は心配そうに俺を見てくる。さっきのことを気にかけてくれてるようだ。
「いや、家が爆発したのは本当なんですけど、今晩はホテルかなぁ、と思ってたんで。大丈夫です。」
俺がへらっと笑うと、麻井主任は一瞬口をつぐんで、意を決したように俺にこう言った。
「笹橋君がよければ、俺の家に来ないか」
少し酔っているのか頬を赤らめている。俺は麻井主任の優しさにジーンと来てしまっていた。
「っ、ありがとうございます!お言葉に甘えて泊まらせていただいてもいいですか?」
勢いよく頭を下げる。麻井主任は仕事でも俺のことをフォローしてくれる憧れの先輩だ。こんな形でもお世話になるとは。
「まぁ、黒髪ロングの可愛い女の子じゃないけどな」
「それは違うじゃないですかぁ」
飲み屋の前で麻井主任と談笑する。そういや、麻井主任って今彼女いたっけ。いたら、気まずいな。
「その必要はない」
「ひいぃっ!?」
俺は急な低音に驚いて、情けない声を出して飛び退く。背後には見覚えのある大柄な男がいた。
「社長…?もうお帰りなったと思っていました」
麻井主任が不思議そうに社長を見る。俺はあまりこの、熊谷社長という人が得意でない。だって、威圧感が半端ねぇもん。
「笹橋君」
「お、おれですか…?」
え、こんな公衆の面前でクビ?それは鬼畜すぎないか?
「会社の方で君の新しい入居先を斡旋しておいた。明日から即入居可だ」
「はい?」
てっきり恐ろしい宣告をされると思っていたので(クビとかクビとかクビとか)、少し間の抜けた声を出してしまった。
「今晩は私が用意したホテルに泊まってくれ」
「お、おえ??あ、ありがとうございます?」
俺は社長の勢いに気圧され、言葉を理解できなかったが適当に返事をしていしまった。社会人にはあるまじき行為だ。
「なので必要はない。麻井君が君を招く必要は」
熊谷社長は淡々といい、麻井主任と俺を見下ろした。
「自分は全く気にしませんが、笹橋君はどうでしょう。」
「お、俺は、別にっ!いや、麻井主任には申し訳ないと思っていたので!」
麻井主任は自分は、別に…、と言いかけて、少し不服そうにしていた。複雑な気持ちになったが、社長の御厚意は受けざるをおえない。
「では、決まりだ。笹橋君、君の効果に期待している」
熊谷社長はビルと満月をバックにして、ニヤリと笑った。のか?
滅多に表情が変わらないことで有名な社長のその姿に、俺ら二人は少し呆気にとられた。
「はいっ!!」
喝を入れられた気になり、もう一度返事をする。
この後、死ぬほど後悔することも知らずに。
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