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物心がついた――バシルが自己を認識した時、まず考えたのは「逃げる」であった。体に突き立てられる刃物に何度も意識を奪われ、自分のものではない何かが体に馴染んでいく。それを恐怖ととったのも、自我が芽生えてからだった。
幼体の頃から今まで怯えるしかなかった本能が「逃げろ」「殺せ」と訴える。
バシルは拘束された腕に力を込め、骨が軋むのも厭わず振り上げた。嫌な音を立てたのは、己が転がされていた台が壊れたのか自身の腕が折れたのかわからない。
隣に立つ男が針を振りかざしたから、刺されまいと意識したら皮膚が硬くなった。
尖った針はバシルに突き刺さることなく折れ床に落ち、男が何か喚き出した。
床に下りれば男の顔は思ったよりも低いところにあり、今までとは違う視界にバシルは高揚するのがわかった。
「台に戻れ!」
――台ニ戻レ。
指差す先には壊れかけた台がある。
男の話す言葉を何度も復唱し、ようやくその意味を理解するとバシルは「嫌だ」と篭った声を出した。
「人語を、話した?」
男の目には恐怖よりも興奮が優っていた、ように思う。
バシルは耳障りな音を発する男を止めたくて、腕を振り払えば男は宙を舞い、床を跳ね壁まで転がっていった。
男から赤い液体が流れ、数回痙攣するとそのまま動かなくなった。
あれだけ自分を痛めつけてきた男だが思いの外簡単に動きを止められて、バシルは「もっと早くこうすればよかった」のだと学んだ。
ふと、折れていたであろう腕を見れば真っ直ぐに伸び、指先まで自由に動かずことができた。
黒く毛の生えた腕は男よりいくらも太い。体の大きさも、力も男より優っていたのだ。
それに自分には、男になかったものがある。
尻の上から生えた腕ほどの尾に、背中にしまわれた羽。
何も恐れることはなかった。
バシルは腹の底に沈殿する不快感を拭い去りたくて、肺いっぱいに息を吸うと咆哮と共に吐き出した。
空気が震え、壁や床が共鳴する。
それが面白くて、声を張り上げたら耳の奥がビリビした。
呼吸をして意識がクリアになれば、今度は様々な情報が押し寄せてくる。
バシルは頭を抑えて膝をつき、一つずつ復唱して理解まで辿り着いた。今まで音でしかなかったものが意味を持つ。なんとも不思議な感覚だった。
ふいに、腹の中からおかしな音がして、バシルは驚いてそこを押さえた。しかし音は止まず、しまいには吐き気を催してきた。何か中に物を入れなければ動けなくなりそうだ。
「……腹、減る」
――腹が減った。
「腹が、減った」
バシルはそう呟くと、自分の足で一度も出たことのなかった扉を開いた。
匂いを辿り、食料庫を見つけると食べられるであろうものを手当たり次第口に入れた。
そのどれもがこれまで食べてきた物よりも美味く、バシルは腹と共に何かが満たされていくのを感じた。
食料庫を出て、他に何かないかと探していると殺風景な部屋で男が纏っていたような物を見つけた。これは『服』だ。理解すると、バシルは穴に腕を通し満足げに鼻を鳴らした。しかし窮屈だ。ボタンを止めれば背中の羽根が潰れそうになる。
ズボンも穿けばいよいよ身動きが取れなくなる。
無理に動いたら縫い目の糸が引き千切れ、バシルはボロ切れになったそれを脱ぎ捨てた。いっそそのままでいようかとも思ったが、穿かなければならないという気持ちは強くなる一方で、仕方なく別のものを探した。
先ほどより大きなズボンを見つけ、穿いてみればぴったりで嬉しくなる。
他にも何かないかと漁れば、見慣れない形の小物が目に付いた。
――鈴。
指で摘みそっと揺らす。美しい音が響き、バシルはハッとして顔を上げた。
――行かなければ。約束の日は過ぎている。
何故そう感じたのかはわからない。だがバシルは疑問にも思わず、鈴を胸のポケットにしまうと部屋を出て行った。
「住み込みの使用人。雇い主は、テレス」
この記憶は自分のものではない。けれど、行かなければならない。
自然と進める足が速くなる。通路を駆け、飛び出した初めての外の世界は眩しかった。
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