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「凛、すまんが、ちょっと頼まれごとをしてくれへんか」
父の聡がノックもせずに凛の部屋に入ってきた。
「ちょっとー。いっつも言ってるやん、ノックは?」
眉をひそめる娘を父はさして気にするふうもない。
「この名簿をパソコンで作ってほしいねん。お父さん、ここんとこ仕事が立て込んでてな」
「……なにこれ」
「今度の十月にある祭事のお知らせ。それと、座の名簿」
「座?」
「神社の氏子で構成されてるやつ。全部で十七座あってな」
ふうん、と凛は気のない返事をする。原稿には、一老だの五人衆だの本当家だの、意味のわからない単語が並んでいた。凛の祖父の名前が一番最初に載っていて、下のほうには父、聡の名前もある。
神社と我が家に関わり合いがあったとは、知らなかった。
「毎年あるやろ、秋祭り。御輿担ぐやつや」
ぼんやりと原稿に目を落としている娘を見て、父は言った。
御輿、と聞けば凛にも覚えがある。法被を着た大勢の男たちが大きな御輿を担ぎ、町内を練り歩いて神社を巡行していく年に一度の祭りだ。
御輿の中には子供が乗っていて、太鼓を叩きながら掛け声をかける。男衆たちはそれに合わせてリズミカルに御輿を担ぐのだ。
弟の巡も以前、乗り子になったことがある。太鼓の練習もあり忙しそうにしていたが、祭り騒ぎの好きな巡は無邪気に喜んでいたものだ。たすき掛けに七色のしごきを背中から垂らすという、派手な衣装に身を包んだ弟の姿を覚えている。
「今年から親父が一老や。座の中でも年長者が務める役目なんやけどな」
「へー。……そういえば、この前おじいちゃん宛にはがき届いてたっけ。〝湯上げ式の儀〟って書いてあったけど、なに?」
「おお、あれか。釜で湯を沸かして、それを宮さんに献上するやつな」
「ふうん、変なのー」
「あとでそのお湯を使って、みんなでぜんざいを食う」
「えっ、そんなんあんの? いいなあ」
凛は和菓子に目がなく、特に餡子が好物なのだ。
「宮座は女人禁制や、残念やったな凛。かっかっか!」
父は腕を組んで娘を見下ろし、からかって遊んでいる。しかしそんな父も、今年もまた御輿の担ぎ手である。肩を大きく腫らして家に帰ってきては、ぶっ倒れるのに決まっていた。毎年恒例のことなのだ。
「まあそんなわけでや。祭事の案内とか各所に送らんなんから、今月中に頼むわ」
「……は? あと一週間もないやん! もっと早く言ってよ」
凛はカレンダーを確認しながら不満の声を上げた。
「はがきの宛名とかも頼むな。全部できあがったら小遣いやるで」
「ほんま? よし、まかせといて」
急にやる気になって身を乗り出す凛を見て、現金なやっちゃなあ、と父は苦笑を残して部屋を出ていった。
「――そんなわけでさ、祭事関係の名簿とかお知らせとかの書類を今パソコンで作ってんの」
「へえー、いいやん。古くから続くこの町の伝統行事やもんね」
友人の三木深月と机を向かい合わせにして給食を食べながら、凛は先日の父とのやり取りを説明していた。
「そうお? わたし、ちゃんと観に行ったことあったかなあ。家の近くをお御輿が通っていくのをいつも布団の中で寝ながら聞いてるだけやわ」
「ぽっぽちゃん、休みの日は長いこと寝てるもんなあ。うちはその……座っていうの? そういうの入ってへんし、地元の伝統行事を代々担ってるなんてかっこいいなあって思うけど」
「え、そうなん? みっきーんとこ、お父さん御輿担いだりしてへんの?」
深月は「してへんよ」と首を振る。
「そうなんか……。うちは毎年普通にやってるから、町内の成人男子やったら誰でもやるもんやと思ってた」
わかめごはんをひと口分箸でつかんだまま、凛は目を丸くして深月を見返した。
「そのお祭りってさ……」
背後から口を挟んでくる男子生徒がいる。彼はガタガタと机を近くまで移動させてきた。
「〝木津御輿祭〟ってやつ? 布団太鼓っていうんだよね、ここのお御輿」
でたな、と心の中で凛はつぶやいた。
「今度、僕も観に行ってみようかな。幕末から続いてるなんてロマンがあるよね。神社はいくつかあるけど、どこに行くのがいいかな」
大神旭は、もうデザートのマンゴープリンのふたをめくって食べようとしているところだった。
彼は木津川市にあるこの中学校に二学期から通いはじめた転校生だ。
「よく知ってんなあ、そんなこと。モノ好きというかなんというか……」
あきれ顔の凛は机にひじをついて、好奇心を向けてくる転校生の表情をながめた。
「あたし案内してあげよっか? たしか、出店もあるんじゃなかった?」
人のいい笑顔を浮かべて、深月が旭に提案をもちかける。
「出店? そうやたっけ」
「せやで」
「…………」
途中で違う声が混ざってきたのを聞きとがめ、凛はだるそうに振り向いた。
そこにはシャツの裾の片方をだらしなくはみ出させて、男子生徒がにやにや笑いながら立っていた。片手には牛乳パックを持ち、ストローで啜っている。
「おれも一緒にいこっかな〜」
「なによ。あんたに関係ないやん」
凛は、けんもほろろにはねつけた。
小学生の頃、なんの因果か一年から六年までずっと同じクラスだった、笈川侑二であった。中学になり、やっとクラスが離れて喜んだのもつかの間。今年また同じクラスに配属されてしまったのだ。
「あんたらさ、なんか最近やけに仲がええみたいやん。転校生のオーカミくんは、両手に花って感じで妬けるわあ」
大神旭の机に尻をもたせかけ、笈川は茶化すように身をよじっている。
凛は今度は完全無視を決めこむことにした。
凛が笈川に対してツンケンしているのには理由がある。六年間同じクラスだった上、ふたりは幾度となく席が隣り合ったり前後の席だったりした。そのたびに、幼稚な嫌がらせを凛は笈川から受けていた。消しゴムくずをノートにばらまかれたり、机に落書きされたり、授業中に友だちから回ってきた手紙を横取りされたり。置き傘を勝手に使われ、返さなかったこともある。
こいつに関わるとろくなことがない。
「おれも行ってもええやんな? みっきー」
笈川がなれなれしく深月の名前を呼んだ。一年生のとき、深月は笈川と同じクラスだったという。
笈川は、男女関係なく誰でも分け隔てなく話すことができるという特技の持ち主である。凛が聞いた限りでは、決まってくだらない内容の話でしかないのだが。
「笈川くん、部活があるんとちゃうの、剣道部の」
深月がささみフライをもぐもぐしながら答えた。
剣道部と聞き、凛の箸が止まる。笈川の横顔を盗み見た。
笈川侑二の家は凛の家からも近く、小学一年生までは笈川家で一緒に遊んだという記憶もある。彼にはふたつ年上の兄がいる。侑二とは違い真面目で勉強もでき、おまけに小さい頃から剣道場に通っており、中学生で二段をとったほどの腕の持ち主なのだ。
兄、総一は侑二のように粗暴でないし、幼稚ないたずらもしない。凛は、小さい頃はそんな総一になついていた。侑二と弟の巡が結託し、ふたりで悪巧みをしては、総一と凛の遊ぶ邪魔をしたものだった。遠く淡い思い出である。
「あんた、剣道部に入ったん?」
笈川にそんな根性があったとは思わなかった。笈川は兄とは違い、小学校低学年の頃にはすでに剣道をやめていたはずだ。
「いやー、実は今年の春にやめましたー」
笈川はしまりのない顔でヘラヘラ笑っている。凛は大きくため息をついた。
「けっこうがんばったほうだと思うのよ? 実際。上下関係厳しいし、練習めっちゃしんどいし。兄貴が卒業したのをいいことに、三年のやつらいじめてくるし。弱小剣道部のくせしてさ、おれがレギュラーになったら絶対戦力上がるってのに、いじめとかもう考えられへんわ」
「あんたが根性なしなだけちゃうの」
「でも一年は続いてんで。おれにしてはがんばったほうやと思う」
おどけて胸を反らせる笈川。相変わらずのだらしのない態度が凛は気に食わなかった。
「少しはお兄ちゃんを見習ったらどうなん。去年、うちの剣道部が近畿大会まで行けたんは総一くんがいたからなんやろ? そら、あんたとじゃ実力に差がありすぎて、先輩もいじめたくなるんちゃうか」
「……ふーんだ」
笈川はいじけたように口をとがらせた。
凛はそんな笈川を何気なく見ていたが、自分の言った言葉に、彼のいつもの明るさがその表情から消え失せたように感じて、なぜかどきりとした。
――あれ。笈川って、わたしが嫌味言ったときこんな反応するようなやつやっけ……。
以前の笈川は凛がどんな嫌味を言おうとも、また嫌がらせに対する抗議の声を上げても、ヘラヘラと笑ってかわすだけの暖簾に腕押し、ぬかに釘。それがかえって神経を逆なでし、憎たらしいことこの上なかった。
今日、笈川と言葉をかわしたのは久しぶりだったが、もう何年も顔を合わせていなかったような隔たりを凛はそのとき感じていた。
「仲いいんだね、波戸崎さんと笈川くんって」
旭が口を挟んできた。
旭が意外に思うのも無理はないだろう。凛はこれまで男子と話をしたことはほとんどなかった。旭という転校生が変わり者で、和泉式部の墓に案内するという中学生らしからぬ奇妙なきっかけがなかったなら、男子と口をきく機会がこの先ずっとなかったのではないかとさえ凛は思う。
「幼馴染やねん、おれら」
笈川が気安く言うので凛は眉根を寄せた。
「なにが幼馴染よ。小さい頃かって、べつにそんなに仲よかったわけとちゃうし」
神経質に牛乳のストローを噛んでいる友人に、深月は外国人がするみたいに大きく肩をすくめてみせた。
「まあまあ、喧嘩せんと。それより、お祭りのことやけどさ……」
深月が凛をなだめつつ話題を戻そうとすると、笈川は友人に呼ばれてあっさりとそちらのほうへ戻っていった。
「なんやのあいつ、腹立つわー、いったいなにしに来てん」
「……ぽっぽちゃんって、ほんま鈍いなあ」
「……なにが?」
怪訝そうに問う凛を見て、深月は涼しい顔で答えた。
「ぽっぽちゃんは笈川くんに意地悪されてきたから毛嫌いしてるみたいやけど、笈川くんはどう見たってぽっぽちゃんに気があるやん」
うげー、と凛はあからさまに顔をゆがめた。
「やめて、まじで。気持ち悪いから」
「気のある女の子をいじめたりするんやろ、男子って。なあ、大神くん」
――それを大神旭に振るか?
凛はぎょっとなったが、彼がどう答えるのか少し興味がある。
旭は牛乳のストローから口を離して言った。
「――そうかな。気があるんだったら、普通にやさしくすると思うけど」
「…………」
「…………」
旭に話した自分が間違っていたと思ったのか、深月は微妙な笑みをもらして友人と顔を見合わせるのだった。
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