水辺の景色

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 それから私は独学でフランス語を勉強した。  高校までの間に教えてくれる授業はなかったし、両親は突然フランスがどうのと騒ぎだした娘のために仏会話スクールに通わせる気なんて無かったからだ。  だからNHKのフランス語講座なんて、どれだけ聞いたか分からない。  けど独学ってのはなかなか難しくて、今の私はせいぜいフランス語の歌を歌うことができるくらいのレベル。  この先は現地で身につけるしかなさそうだ。  でもフランスへの移住計画は今のところ頓挫している。  現在のフランスは未曾有の就職難で、移住したいという人間にそうやすやすと就労ビザを発行してくれないのだ。 「私はフランス人なんだよ、母国へ帰るだけなんだってば!」  私の叫びは、遠くフランスにまで届かない。  現地の人と知り合って、呼び寄せてもらうような形だったらビザも下りやすいと聞いたけれど、私のフランス語能力じゃフランス人と知り合うことがまず無理だ。  現地に住む日本人と連絡を取り合って、という手もあるにはあるけど、そもそも人付き合いが嫌いな私にはハードルが高すぎる。  私はパリの裏通りのアパートメントに人知れず住み着きたいだけなのだ。決してパリでの優雅な生活を謳歌しているオシャレマダムとお近づきになりたいわけじゃない。  フランス移住計画を一旦保留にした私は今、カメと暮らしてる。ケヅメリクガメのトフチー。フランス語で亀の意味。  この子とはペットショップで出会った。何気なくケージを覗き込んだ私のことをガン無視したところが気に入ったのだ。これから飼い主となるかもしれない私なんぞ眼中にも無いという、その心意気が素晴らしい。  世話も楽だった。  室温さえ維持しておけば、あとは家の中を勝手に歩き回らせておけばいい。餌は野菜とタートルフードで、散歩もいらないし大声で鳴く事もしない。一人暮らしの私にはもってこいだ。  仕事はSEをやっている。うちの会社のシステムを買ってくれた会社に乗り込んで、設定を組み、使い方を説明する仕事。  できる限り人と喋らなくていいことを基準に仕事を選んだらこうなった。  知らない会社で知らない人に説明するのは嫌だけど、まぁ営業じゃないからまだマシ。それに今派遣されている化粧品メーカーでは、きらびやかな女性社員たちが仕事以外での私の存在を完全に無視してくれる。とても働きやすくていい。  SEになって良かったことが一つある。SEの仕事は断然東京に多くて、私は就職の為という名目で実家から完全に離れることに成功したのだ。  今住んでいるのは、都内のワンルームマンション。フランス行きがいつ決まるかわからないから、購入ではなく賃貸で。  このマンションの決め手は窓の外に多摩川が見えるところだった。しかもバルコニー付き。  多摩川のだだっ広い河原を利用して作られた簡素な野球場が見えてしまうのは嫌だが、バルコニーという代物は私にとってとても大切な空間だ。  大阪から帰ってきた翌朝、私はテーブルとチェアをこのバルコニーに引っ張り出した。  連休を取っていたから今日もお休み。そんな私は今からpetit-déjeuner、つまり朝ごはんを食べるのだ。
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