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「ひどいとか可愛そうとか言う権利、にいちゃんにはないよ。あんたさっき、ファンだった、言うたやろ。だったて、過去形で。にいちゃんも、長嶋くんが負けたら途端に消えた人間の一人なんや」
そうなのかもしれない。無名のボクサーにKO負けを喫し、テレビでも取り上げられなくなった長嶋から、俺もいつしか興味を失った。プロとはそういうものだとは言うが、去られる側の心情は想像したこともない。昨日まで仲間だ親友だと言っていた人たちが、急に掌を返していなくなる絶望感など、考えたこともない。どこか現実ではない、別の世界の物語だったかのように、みんな彼のことを忘れ去っていったのだ。俺も世間も、その後出てきた日本人世界チャンピオンに目移りし、長嶋のことは存在しないように扱ってしまっていた。
「まあ、結局、残ったのは飼うてる犬だけやったっちゅうこっちゃ。世間は冷たいもんやの」
おっさんはそう言うと、俺の顔を覗き込んだ。
「犬はええよ。まっすぐ芯通ってる飼い主なら、貧しかろうが何やろうが、裏切るような事はせえへんから。にいちゃん、飼うなら犬やで。オススメはレトリーバーや。下手したら人間より賢い。俺の次くらい」
おっさんは笑った。犬と比べて一歩リードなら、おっさんも大したことはないような気がする。
「とにかく、これだけ人に裏切られても愚痴も言わん。残ってくれたもんは犬でも精一杯面倒みる。精一杯、幸せにしようとする。そんな長嶋くんは、もっと幸せになってもいいと思わんか?」
怪しいおっさんだが、なんだか信じてもいいような気がしてきた。犬のことはよく分からないし、このおっさんが妖怪であることを信じることはできないが、しかしこのおっさんが他人の幸せを願い、他人の幸せの為に行動していることは間違いなさそうだ。行動は問題ありだが、善人なのだろう。
「なんで長嶋康介なんですか?」
「何がや」
「いや、大した疑問じゃないんですけど。確かに長嶋は負けた途端にみんなに手のひらを返され裏切られましたけど、犬を大事にするいい人かもしれないですけど、でも不幸な人はいっぱいいるんだし」
俺も含めて、と言いかけたが、なんとか言い止まった。このおっさんと話しているうち、俺には自分が不幸だと言う資格がないように思えた。不幸なのは、俺じゃない。
「わしな」
おっさんが言った。
「犬派やねん」
「それだけでなんですか」
「人の幸せを望むのに、大層な理由なんかいらんわい」
そう言うと、おっさんはガハハと笑った。
「じゃあ、犬を飼っていたら、座敷わらしが来てくれるんですか」
「猫派の座敷童もおるで。ちなみに人気動物ランキング三位は意外と牛やねん。びっくりやろ?せやからか、北海道が一番座敷わらしが多いねん。綺麗なとこやし、何食うてもうまいからなあ」
「座敷わらしって、そんなにいるんですか」
「まあな。全国座敷わらし連盟に加盟してるんは大体五百人ほどやけど、モグリもおる。まあ、違法やねんけどな。結構、罰金取られんねんで」
白タクみたいなものか。
「みんなに裏切られても愚痴も言わず、自分のもとに残ってくれた犬の幸せだけでも守ろうとしてんねや。犬好きとしては、なんとかしたい思うやろ」
結構適当なんだと思った。でも、確かに言う通りだ。幸せを願うのに、大層な理由がある方がおかしいのかもしれない。
その時、俺はふと口を開いた。
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