夕暮れの街

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「みぎ」「ひだり」と(いぬい)の指示に従って歩いていると、彼女がぼそりと呟いた。 「さくまくんって、やさしいね」  うわ言のようなその言葉に、椎名(しいな)は乾の意識を保たせようと、敢えて応答する。 「これくらい当然だろ。誰でも同じことするって」 「わたしの、ほんとうのすがた、みたのに」  本当の──車を突き破って出てきた獣の姿が脳裏を過る。しかし椎名はすぐにその想像を打ち消して、顔に笑顔を作った。 「なんのことだよ? それよりも、次はどっちに行けばいい?」  あの化け物が乾だなんて、そんなこと考えたくなかった。もし、今その事実を認めてしまえば、すぐにでも彼女を放り投げて逃げ出してしまいそうだった。  どこまで行っても抜け出せない街も、沈まない夕日も、影の運転手も、謎の怪物も、怪我の割に元気な少女も、全てを無視して進まなければ正気を保っていられる自信がなかった。  恐怖と狂気に呑まれないように抗う椎名を尻目に、乾は少しの沈黙を挟んでから「そこ、みぎに」と案内を再開させた。    彼女の指示に従い角を曲がって、足を止めた。高いビルとビルの間に伸びる細い路地。そこは一寸(いっすん)先も見えないほどに真っ黒だった。比喩(ひゆ)などではなく、本当に墨で塗りつぶしたような漆黒が眼前に広がっている。 「……ここか?」 「うん、そこ、まっすぐ。ふりむかないで」  ここまで来たからには、もうどうにでもなれだ。椎名は一つ、深呼吸をして闇の中に足を踏み入れた。  路地に入り、数歩進んだだけで前も後ろも、上下左右さえもわからない暗闇に包まれる。  しばらくの間、耳元で「まっすぐ、まっすぐ、ふりむかないで」という乾の声を頼りに歩いていると、不意に彼女の声が途絶えた。  さすがに気を失ったのだろうと思ったが、入れ替わるように違う言葉が聞こえてくる。 「いたい、いたい」  それは幼い子供のような声だった。悲しそうに、泣いている。 「いたい、いたい。たすけて、だれか」  遠いのか近いのか、距離感が全く分からないが、それは後ろから聞こえていることだけはわかった。振り向きたい衝動に駆られるが、必死に堪える。  その時だ。背中に感じていた重みがなくなった。  乾が落ちたのかと思い、反射的に後ろを振り返ろうとした椎名の頭を何かが掴んで固定する。 「フりムくな。マっすグ。すすメ」  耳元で囁く声は(かろ)うじて乾のものだとわかる。しかし、頭を押さえる手は明らかに人の掌とは違っていた。頭を丸々包み込むほどの大きさ。そして時折、顔に硬く鋭い物が当たる。  得体の知れない恐怖の中で、椎名はただ足を前に進めることしか出来なかった。  何も見えない視界と極度の緊張で意識が曖昧になり始めた頃、椎名は肩を叩かれてハッと我に返る。  目の前には馴染みのラーメン屋があった。すでにシャッターは降りているし辺りは夜になっていたが、それでここがよく知る場所であると理解する。
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