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第5代ゼミ長で、今は東京都の職員をしている野中雄三は、山の幸をたっぷりと盛り込んだきのこのカレーライスのつくりかたを書いていた。
しかし、ごはんを炊き忘れていた。
今炊飯器をプレゼントした橘要一は、牛すじを入れて煮込んだカレーライスが一番うまいと饒舌に書き記していた。
しかし、やはりごはんを炊き忘れていた。
第12代のゼミ長で今はゲームソフトの会社で知的財産に関する業務を行っている中谷英太は、夏野菜をふんだんに使った色鮮やかなカレーライスのつくりかたをしたためた。
そして、しっかりとごはんを炊き忘れていた。
第14代のゼミ長で現在地元で法律事務所のボス弁を行っている内藤要一は、何種類ものチーズをふんだんに入れたチーズカレーライスのレシピを記していた。
勿論、ごはんを炊くことなど眼中になかった。
第15代ゼミ長の内藤みなみは、夫である要一とともに同じ事務所で弁護士として活動している。みなみが書いたのはトマトバターチキンカレーのつくりかた。今から15年近く前に書かれたことを考えると時代を先取りしているのだが、当然ごはんは炊いていなかった。
第18代ゼミ長の佐藤大輝は業界最大手の資格試験予備校に勤務し、行政書士や司法書士の受験を目指す受講生のサポートをしている。彼が書いたのはほうれん草と大豆のカレーのレシピ。ふんだんにスパイスを効かせてご丁寧にナンまで用意していたのだが、レポートの内容はあくまで「おいしいカレーライスのつくりかた」だ。佐藤自身がレポートの冒頭で
「民法第九十六条三項における第三者の定義及び、取り消し後の第三者の保護についてはさておき、おいしいカレーライスのつくりかたについて論じる」
とはっきり書いているので、救済の余地はなかった。
第20代のゼミ長である男鹿剛は、卒業後に地元の秋田に戻って公務員として勤めている。レポートに記されたレシピ自体はシンプルだが、にんじん、玉ねぎ、じゃがいもを雪の下で越冬させ甘みを増させるという雪国独特の工程が入っていた。鶏肉は比内地鶏を使うと明記されており、秋田を愛する気持ちがふんだんに盛り込まれていた。これであきたこまちを使ってごはんを炊いていたら完璧だったのに。本人もそれを1ヶ月近く悔やんだという。
そして、今回花束贈呈役を買って出たのは昨年卒業したばかりの第27代ゼミ長・原田ひかり。ひかりは船山と出会って法律の面白さに目覚めて本気で勉強を始め、見事東大の法学研究科への進学を果たした。しかし、どうやら本気でおいしいカレーライスをつくるときにはごはんを炊かないらしい。
松本を含めて9人の顔を眺めながら、再び船山は口を開いた。
「さっき松本君も言ってたけどさ、私のレポートにおいしいカレーライスのつくりかたを書いたら単位もらえるって話は昔からあったんだよね。で、毎年5人くらいはいたんだよ。実際書いてきた人。で、ここには大学の職員さんもいるから言いづらいんだけどさ……」
船山はバツの悪そうな顔をしたのち、再び口を開いた。
「大昔だけどさ、何人か単位をあげた人もいたんだよね」
講堂全体が笑いに包まれた。
「ほら、たとえば、就職が決まってる4年生とかさ。レポートの提出期限過ぎた後に手紙を送ってきたりするんだよ。就職決まってるから困るから単位下さいって。で、そういう人に限って民法の話じゃなくてカレーライスの話を書いていたりする」
再び笑い声が沸き起こる。単位を一度は貰えなかったはずなのに、壇上にいる9人も笑顔だ。
「じゃあどうして彼らにメッセージだけ書いて単位をあげなかったかというとね、彼らにはしっかりと民法を勉強してほしい、そしてできることなら私の授業にもう1回ついてきて欲しいと思ったからさ。だって、彼らのカレーライスは他の学生と比べても抜きん出て手が込んでいたからね。その情熱を学問に向けてくれれば、大化けするような気がしたんだよ」
晴れやかな面持ちの船山とは対照的に、松本の瞳から熱いものがこぼれ落ちてくる。他の面々も寂しそうな面持ちの者をしていたり、ハンカチで目元を押さえていたりする。船山は話を続けた。
「でもね、彼らがこうやって世の中に出て活躍しているのは私のおかげという訳じゃない。彼らの今があるのは、本人が情熱を持ってここまで頑張ってきたからだ。彼らだけじゃない。私は今まで関わってくれた学生達皆のことを心の底から誇りに思います。そして、これからも情熱を持って色んなことにぶつかっていってください。本当に、本当にありがとう」
船山の言葉が終わったところで、花束を持った原田が前に出た。赤、白、黄色、ピンク、紫と彩り鮮やかな花束が船山に手渡された瞬間、講堂内の人達は総立ちになった。
割れんばかりの拍手が続く中、船山は右手を振りながら出口へと向かっていく。そしてその姿がなくなってからも、その音が鳴り止むことはなかった。
【終】
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