無窮

8/10
前へ
/10ページ
次へ
 私は最前列の中央に座る女教師を見て足がふらつきました。家内によく似ていたのです。 「専門は国語らしい」  家内も国語教師でした。 「あの教室の裏はフェンスで囲まれた沼です。壁一枚、その壁に掛けられた黒板から出入りしたのではないでしょうか」  警備員は想像を膨らませ過ぎて恐怖の妄想で先が見えなくなっていました。 「しっかりしてください。もう家内が橋を渡りますよ、物干しは用意しているんでしょうねえ?」  警備員は頷きました。頷くと汗が床に落ちました。警備員を橋の手前で降ろし私は橋を渡り車を路地に停めました。『ジャシャン ジャシャン』家内が近付いて来ます。 「♪ちょっきんちょっきんちょっきんな、ちょきちょきちょっきんちょっきんな」  懐かしい、どこかで耳にした旋律はあわて床屋のフレーズと想い出しました。雨が降りだしました。稲光が橋の上に落ちました。家内の顔が照らし出されました。私は驚いて後退りしました。滑って尻もちをついてしまいました。篠突く雨に顔が痛い。チューブのはみ出た自転車を押しているのは家内ではなくあの写真の真ん中に座っていた国語教師です。橋の真ん中、私は飛び出して家内を強く押しました。かろうじて自転車は橋に残りました。小川はこの雨で増水しています。橋の下を家内が潜りました。反対側に上がろうともがく家内を警備員が物干しで突いています。こちらに向かって手を伸ばしました。私は家内の喉を突きました。顔は水面に沈んで苦しんでいます。口からあぶくを吐いて私を睨んでいます。警備員が足を滑らせて小川に落ちました。家内が警備員に抱き付きました。そしてそのまま滝から沼に落ちました。私はしばらく湖面を見つめていました。そして自転車を拾い車に載せて帰宅しました。このことは新聞もテレビでも報道されませんでした。
/10ページ

最初のコメントを投稿しよう!

4人が本棚に入れています
本棚に追加