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2028年6月、イタリアの海上都市「ヴェネチア」
◆ 2028年6月、イタリアの海上都市「ヴェネチア」 ◆
新月の夜、闇に覆われた真っ暗で視界の利かない運河の上を、三艘のゴンドラが一列に隊列を組み、舳先にチラチラ燈ったランプの灯を揺らしながら、ゆっくり同じ方向を目指して進んでいた。
漕ぎ手を除けば、それぞれのゴンドラに客は一人ずつしか乗っていない。この蒸し暑さだというのに、客達は皆、マントに身を包み、顔を隠すようにフードを深く被っていた。
誰一人として、言葉を発する者はなく、船体の軋む音だけが静寂の中に響いていた。
しばらくして、ゴンドラの進行方向の先でランプの灯りが大きく揺れた。何者かが船着き桟橋で合図をしている。
ゴンドラの漕ぎ手達はその灯りを確認すると、船のスピードを落としながら周囲により一層の気を配りだした。まるで、盗みに入る寸前の盗賊が辺りを注意深く確認しているかのように、さかんに首を左右に振っては暗闇の中に眼を凝らしていた。
先頭のゴンドラが桟橋に静かに横付けされた。
ゴンドラの揺れが治まると、客がゆっくり立ち上がった。桟橋の上には、微笑む老人の姿があった。
老人の後に整然と立ち並ぶ者達の中から、男が一人歩み出て、ゴンドラへ近づき客に手を差し出した。一瞬、躊躇いを見せた客が、意を決したようにその手を掴み、無言のまま軽やかに桟橋に上り移った。
「ようこそ、当屋敷へ。マルディーニ枢機卿、お待ちしておりましたよ。」
桟橋にいた老人が丁寧に会釈をしながら言うと、枢機卿はゆっくりとマントのフードを脱いだ。
老人の顔に浮かぶ笑みとは対照的に、マルディーニ枢機卿の顔に笑みはなかった。
枢機卿の顔はまるで、犯した罪の刑を言い渡される寸前の犯罪者のように、不安や怖れの翳りに覆われ、無表情に強張ったままだった。
「ご案内を。」
老人が後ろを振り返って言うと、メイドらしき若い女が歩み出て、マルディーニ枢機卿を先導しながら屋敷の中へ消えて行った。
ゴンドラが順々に桟橋に横付けされる。老人が同じように笑みを浮かべて客に声をかけるが、残りの二人の客もまた、マルディーニ枢機卿と同じく、一言の声も発する事なく、ただ案内の者に先導されるままに屋敷の中へと消えて行くだけだった。
三人の客が屋敷の中に入ったのを確認すると、老人は星の瞬く夜空を見上げた。そして、自分の額と胸に指を当てて十字を切り、小さく呟いた。
「主よ、これより与えられた責務を果たします。どうか、我を導きたまえ。」
一瞬、七色の光を放つオーロラが夜の空に幻影のように現れ、そして、すぐに消えた。
「マリオ様、皆様を部屋にお通しいたしました。」
老人の背後で、執事らしき男が報告した。
「よろしい、では、行こうか。」
夜空を見上げたまま、老人は言った。
老人が軽やかに体を反転させる。桟橋に残っていた者達が老人に向かって皆一斉に頭を垂れる。老人は、見かけによらぬしっかりした力強い足取りでその者達の前を通り、屋敷の中に入っていった。
◆ 7日前・・・マリオの歓喜の朝 ◆
マリオ・フェリーニは、混乱の中で101歳の誕生日の朝を迎えた。目覚めるつい今しがたまで、実に奇妙な二重の夢を見ていたせいだ。
不思議な事に、眠りの中で、突然、何者かの声が轟いた。
驚いたマリオは、慌てて飛び起きようとした。だが、彼の意識がどんなにもがこうと、彼の肉体はなんの反応も見せず、それどころか、目蓋さえ開く事ができなかった。
底知れぬ恐怖が湧き上がり、マリオのパニックが臨界点に達しようとしたその時、また何者かの声が轟いた。
「マリオよ、恐れる必要はない!」
マリオは驚愕した。なぜなら、その轟く声は耳に聴こえていたのではなく、頭の中に直接響いていたからだ。
三度(みたび)、声がした。
「マリオよ、よく聞け!我が名は、『神』。全能にして、汝らを創り出した存在である。」
その声が頭の中で轟き終わると同時に、マリオはその夢から解放された。マリオの視界に、寝室の景色が広がっていた。
マリオは慌てて上半身を起こした。第二次大戦の最中、戦場において自分を襲った銃弾で脊髄を損傷したため、それ以後、動く事は勿論、すべての感覚を失っていた両脚以外の肉体が、ようやく切り離されていた感覚を取り戻した。
上半身が、手の指の先までベッタリした汗で覆われていた。夢の中で味わった恐怖のため、胸の鼓動は異常に速まっていて、呼吸は荒立ったままだ。マリオは懸命に呼吸を整えようとした。
「な、なんという夢だ・・・」
マリオがそう呟いた時、またしても頭の中で声が轟く。
「我が子にして、僕(しもべ)の者よ、我が力を見よ!」
轟くその声が止むと同時に、マリオの上半身を覆っていたベッタリした汗が急速に蒸発し、心拍と呼吸が安定を取り戻した。
度重なる驚きに包まれながら、同時に、マリオはかつて経験した事のない不思議な感覚を感じ始めていた。安らかに満たされているにもかかわらず、止めどなく溢れ出る泉のように湧き続ける高揚感が、マリオの全身を包み込んでいた。
突然、無感覚だったマリオの両脚にある感覚が走った。マリオは、恐々と下半身を覆っている毛布を捲った。自分の両脚をじっと見つめる。
動かぬはずの脚が動いた。驚きのあまり、無意識にマリオの口から声が漏れる。
「おおぅ・・・こ、これは・・・まさしく、主のみがなせる奇跡・・・」
マリオは寝室を見回した。しかし、自分に奇跡を施した主の姿は何処にもなかった。
驚きと興奮の中、マリオは次なる主の声をじっと待った。そして、マリオは主の言葉を聴いた。主の計画を。そして更に、自分の使命を。
だがそれも、実際は、まだ夢の中の出来事だった。
◆
マリオが微睡から醒めてほどなくすると、小さなノックの後に、寝室のドアがゆっくり開いた。
「おはようございます、マリオ様。」
お決まりの朝の挨拶を言いながら、執事のロベルトが、マリオの朝食を載せたワゴンを押したメイドのソフィアと一緒に入って来た。
「ああ、おはよう、ロベルト。」
不思議な爽快感に包まれたまま、ベッドの上でゆっくり上半身を起こし、マリオが朝の挨拶を返した。
ロベルトはいつも通りに部屋のすべての窓の内扉を開けてから、主人の新しいガウンを取り出そうとウォークインクロークへ向かった。
メイドのソフィアは、受け皿ごと手にした珈琲カップに、銀製のポットから珈琲を注いでいた。いつもの朝と同じように、寝室の中が珈琲の芳香な香りで満たされた。
突然、好ましからぬ音が部屋の中に響き渡った。床に広がった珈琲の中に、銀製のポットが転がり、珈琲カップと受け皿が割れて散らばっていた。
何事か?・・・と、ロベルトが振り返る。
ロベルトの視線の先には、珈琲を注ぐ姿勢のまま蝋人形のように固まって立ち竦み、マリオを凝視するソフィアの姿があった。その手には勿論、珈琲カップと受け皿も、銀製のポットもなかった。
「ソフィア、何をしている!早く片付けなさい。」
ロベルトがソフィアを叱責する。
「申し訳ありません、マリオ様。すぐに片付け・・・」
マリオに視線を移したロベルトもまた、途中で言葉を飲み込み、その場に立ち竦んだ。
「マ・・・マリオ様・・・」
マリオが、ベッドの傍に立っていた。マリオの右横には、彼の足であるはずの車椅子が忘れられたかのように置かれたままだ。
マリオは自分の脚を見下ろした。無意識に自分の両脚で立っていた。誰にも支えられる事なく、何かに掴まる事もなく、己一人で立っていた。
それは、マリオ自身にとっても驚きだった。
「な、なんと・・・あの奇妙な夢は・・・あれは、夢ではなかったのか?それとも・・・これも、まだ夢の中なのか?」
マリオは、さっきまで見ていた夢を思い起こした。混乱がマリオを襲う。驚きの色を隠せない眼を見開いたまま、マリオは部屋の中を見回した。
眼の前には、執事のロベルトとメイドのソフィアがいる。いつもの朝と同じように、寝室の中は芳しい珈琲の香りに満たされているし、ベッドの横にある小さな丸テーブルの上には、昨夜、眠る前にチェックし終えた会計報告書が無造作に置かれていた。
「いや・・・夢ではない・・・これは、現実だ・・・だとすると・・・」
マリオは改めて自分の両脚を見下ろし、その両脚に慎重に意識と力を伝えてみた。
右脚の膝がゆっくり上がり、足底が踵から床を離れた。その足が控え目な一歩前の床に降りると、連動して左脚が同じ動作をした。マリオは自分の両脚を見つめたまま、確かめるように何度も何度もそれを繰り返した。
ロベルトとソフィアは、眼をまん丸にしてあんぐりと口を開け、まだ蝋人形のようにその場に身を固めたままだった。ただ二人の眼球だけが、寝室の中をゆっくり歩くマリオの姿を追って動いていた。
寝室の中を歩きながら、マリオが笑い出した。
微かに口元が緩むくらいの恐々とした控えめな笑いが、次第に声となり、仕舞いにはマリオの全身が笑いに連動して大きく震え出していた。
マリオは、取り戻した。あの忌まわしき戦争で失った両脚の自由を。夢の中で聴いた、いや、自らの声を人の脳に直接轟かせ、その者の病を取り除いてしまうという、全能なる主の偉大な力によって。
バルコニーに続く寝室の扉を、マリオがゆっくり押し開ける。朝の湿り気を帯びた新鮮な空気が、一気に部屋の中に流れ込む。視界の先には、朝陽に包まれて眩いばかりに輝くヴェネチアの街が、まるで光の繭の中に浮いているかのように広がっていた。
「美しい・・・」
マリオは小さく呟いた。彼の生きて来た101年の歳月の中で、最も美しい朝だった。
マリオは空に向かって両手を広げ、ヴェネチアの街と共に美しい朝の光を全身に浴びた。マリオの人生に於いて、初めて経験する歓喜の瞬間だった。
マリオの瞳から涙が零れ落ちる。生きる喜び、解放、自由、奇跡と感動、主の存在の確信・・・マリオは、溢れ出る涙を止める事ができなかった。いや、彼はその涙を止めようとさえしなかった。
◆
マリオは急ぎ行動した。自分の見た奇妙な夢が夢ではなく、神によって施された奇跡であり、真実だと確信したのだ。
だとすれば、自分は、神に与えられた役目を果たさなければならない。神の偉大なる計画の完成のために。
それこそが、自分の使命であり、これまでの自分の人生は、そのために存在したのだ。そして、残された自分の人生も。
その思いが、マリオの行動に断固たる決意とスピードをもたらしていた。
神の実在を確信したマリオは、もはや、残り少ない日々の先に訪れる、死を待つだけの老人ではなかった。
誰もが羨むほどにあり余る富と名声を得ても尚、心の奥底に深い絶望を抱いていた老人が、その人生の最後にして、ようやく、自らが真に願い、欲していた唯一のものを得て生き生きと輝き出していた。
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