車椅子の大聖人

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車椅子の大聖人

◆ 車椅子の大聖人 ◆ マリオ・フェリーニの名は、異なる二つのイメージを併せ持ちながら、イタリア国内はおろか、広く世界中の人々に認知されていた。 一つは、金融や不動産、メディアや通信といった、多種多様な事業をグローバルに展開する巨大コンツェルンの総帥のマリオ・フェリーニとして。 そしてもう一つは、世界屈指の資産家であり、成功者でありながら、唯の一人の敬虔なクリスチャンとしての立場を忘れる事なく、世界各地で慈善事業や奉仕活動を行う財団を創設した、「車椅子の大聖人」のマリオ・フェリーニとして。 もし仮に、マリオが政治というものに魅力を感じ、政治的な大いなる野心を自らの心の内に抱いていたならば、彼は間違いなく、イタリアの宰相となってその野心を果たしていただろう。 マリオが築き上げた膨大な財力と、世界各国の要人達との人脈、巨大な組織力と、その機動力、そして何よりも、自国の大衆からの圧倒的な支持と、絶大な人気をもってすれば、それはいとも容易な事だった。 しかし、第二次世界大戦という、イタリアを敗戦と混乱へ導いた戦争で、自分の愛する者達ばかりか、自身の両脚の自由を失った上に、帰還後、人々の無情と更なる失意を経験した彼にとっては、その悪夢のような現実の元凶である、偽善と欺瞞に満ちた政治の世界こそは、忌み嫌うべきものとして距離を置くべき世界であり、神に奉仕する事により寛大で全能なる神の慈悲を願う事だけが、絶望という地獄のどん底にあった自分を救う事のできる唯一の世界だった。 ただ彼は、聖職者達とは違う方法をとってその世界の中にいた。 <なぜ、マリオはそうしたのか?・・・> それは、彼の生い立ちに起因していた。神から許しを受けた両親に授けられた、唯一の子としての自分の生い立ちに・・・。 あの敗戦による絶望感の中で、人々は皆、神の不在を感じていた。戦争が終っても繰り返される、勝者による、または自国の者達による略奪と強姦。 祖国と、その国の民のために戦って負傷し障害を負って帰還したにもかかわらず、その者達へ向けられる中傷と蔑み。 愛しく抱きしめてくれるはずの親ばかりか、帰る場所さえ失い、放り出され、追い払われて街を彷徨う子供達。 まるで地獄絵図のようなあの時でさえ、マリオは神の実在を疑わなかった。 だからこそマリオは、ただ弱く無力なだけの聖職者となるのではなく、敢えて、その地獄の中に自らの身を置きながら、たとえどんな手段を使ってでも、富と権力を持とうとしたのだ。 自分だけでなく、自分以外の、神に救いを乞う弱き者達を、一人でも多く救うために。 たとえそれが、聖職者達の言う、神の教えに反する事であり罪であろうとも、マリオは一向に構わなかった。神が定める領域である運命を、そして罰を、マリオは覚悟をもって受け入れようとした。 その生涯を、敬虔なクリスチャンとして神への忠誠と奉仕に努めた優しい父と母の物語を知るマリオにとって、神の実在と寛大さは、疑う余地などない絶対的な生きる指針であった。 神の寛大な許しがなければ、兄妹として育った父と母の子である自分は、この世界に生まれなかったのだ。 父と母の死後も、101歳に至るこの日まで、マリオは神への感謝を忘れる事はなかった。 「常に、神への感謝を胸に抱き、生涯をまっとうする事。」 それは、優しかった母がいつも口にしていた言葉だった。 そんなマリオに、神によって奇跡が施された。長く人々に不在を装っていた神が、ようやくにしてその存在を示してくれたのだ。 マリオは残りの人生を、神より与えられた使命だけを果たすためにのみ使う決意をもって、急ぎ行動した。 神の言葉によれば、人々に残された時間はそれほど多くはなかったからだ。
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