4人の預言者の誕生

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4人の預言者の誕生

◆ 4人の預言者の誕生 ◆ マリオが部屋に入ると、すでに自分の席に着いていた三人の客達がマリオに一斉に視線を向けた。 部屋の中の灯りは、テーブルの中央に大きな蝋燭が一つと、四方の大理石の壁にそれぞれ一本ずつ蝋燭の炎が灯されているだけで薄暗かった。蝋燭の炎がチラチラ揺れる度に、部屋の天井と壁で、光と影がユラユラと妖しげに踊っていた。 マリオは用意された自分の席の前に進むと、椅子に座らず、立ったまま低く静かな声で話し始めた。 「今宵、此処にこうして、三人の異教の長老が一堂に会していただけた事に、まずは感謝を申し上げる。私を含め、今この部屋にいるあなた方は、神の啓示によって導かれた者達であり、これより後に訪れる、神が創造を終えた世界に、神より託宣を受けた者として、共に人々の導き手となる方々です。 神は、すでにあなた方に証を与えました。それ故にこうして、ユダヤとイスラム、そしてカトリックのそれぞれの宗教の代表者でもあるあなた方が、共に手を取り合い、神の真の姿と計画を人々に伝えるために、今、此処にこうして同席しているのです。 決して相容れる事のなかった者達が、神に導かれ、唯一つの真実、唯一つの目的のために集いました。 いったい誰が、この光景を想像でき得た事でしょう。いや、何人もこのような事が現実に起きると考えた者はいなかったし、あり得ない事だと思っているでしょう。 実際、あなた方も、今宵のこの事実には驚きでしょう。これこそが、神だけが可能にできる業であり、その神に導かれるままに、私達は此処に集いました。 あなた方の一人一人の身に施された奇跡、それと同時にもたらされたヴィジョン、我々が、神より命を受けたのは明白です。その時が訪れたのです。神に与えられた使命を、私達は果たさなければなりません。」 マリオは、一人一人の長老の顔を見回した。誰もが驚きを隠せない表情をしている。少し間を置いて、マリオは続けた。 「あなた方の驚きは、良くわかります。私自身もそうなのですから。かつて、それぞれの神がこの世界に現れ、そして、それぞれの神がその姿を隠してより後、今日まで延々と続いている、残された我々人類同士の対立。 その長い対立の歴史の中で、ある者は神の存在を忘れ、またある者は、畏れ多くも神の名を利用し、己の欲望のままに数々の悪を行いながら、神が創造したこの世界を闇の世界へと導いています。 その者達は、神の装っていた不在を利用しました。自分達を利する唯それだけのための都合で、神の教えと真実を捻じ曲げ、自らの行いを正当化し、更に、そうした悪意に満ちた根拠や理由を様々なメディアを通して正当へとカモフラージュしながら、今もこの世界に絶望の種を撒き散らしています。 それ故に、大半の人々が、それぞれの自分達の神の名を口にしながらも、神の不在と希望の消滅を受け入れ、まるで死人のように無気力になったまま、神の名を騙る者達の意のままになっているのです。 まるで、神ではなく悪魔が創造したようになってしまったこの世界で、私自身も何度絶望を感じ、挫けそうになった事か・・・ 自分自身の深まる老いと共に、虚無感が増大し、己を鞭打ちいくら奮い立たせようとしても、掃え切れぬその絶望の中で、私は死を迎えるのだと思っていたのです・・・ 私の魂は、まさに陥落寸前でした。 しかしあの夜、神が夢の中に顕れて、私の魂と体を癒し、そして、神自身の言葉によって、神の大いなる計画を知らされたあの時、私は救われたのです。 神の僕(しもべ)として自らの使命を果たし、神の計画の一部を担える喜びの時がやっと訪れたのですから。 私の心の中の深い部分までも覆っていた絶望が消滅し、大いなる希望の炎だけが放つ神々しい光に、今の私は包まれています。」 「しかし・・・」 長老の一人が、眉間に深く濃い皺を刻みながら呟いた。部屋の中にいる全員の視線が、その長老に向けられた。 「どうぞ、アラム・ラビ。」 マリオが、ユダヤの民の長老であるアラム・ラビに発言を促した。 「確かにあなたが言うように、今宵、此処に、この面々がこうして同じテーブルに着いている事は奇跡と言えよう・・・我らユダヤの民をエジプトより連れ出した偉大なる預言者モーゼですら、このような日が来るのを想像する事ができたかどうか・・・この私が、異教のアラブの民である者と同席し、共に新世界の創造の礎になるのだとは・・・」 「それは、ムスリムである我とて同じ事!」 アラム・ラビの向う正面に座る、イスラムの長老ムハマド師が口を挿んだ。 「我らの唯一の神であるアッラーより啓示を受けた預言者ムハンマドが、十四世紀前、激しい迫害の中、信徒七十数名を引き連れてメディナに移住し、長く激しい戦いの後に聖地メッカを奪還したのはいったいなんだったのだ・・・そして、その後も流れ続けた、我が同胞達の血は・・・ 今宵のこの屈辱とも感じられる思いさえ、すべてはアッラーの思し召しだと言うのか・・・」 長い対立の歴史の中、ヤハウェとアッラーという異なる神に忠誠を尽くして来た、異なる民族の二人の長老の顔が、共に苦痛に歪んでいた。 「お二人のお気持ちはよくわかります・・・マリオ氏の話が本当だとすれば、我が主が遣わした神の子イエス・キリストは、ユダヤの神の子であり、同時に、イスラムの神の子でもある事になるのですから・・・ それはまさしく、信じ難い驚くべき事であり、それぞれの神に忠誠を誓いながら互いに反目し合って生きて来た者にしてみれば、当然、受け入れ難い事です。」 次のローマ法王に最も近いと見做されているマルディーニ枢機卿が、その顔に苦渋の色を浮かべながら発言した。 「しかし・・・」  消え入りそうな小さな声で呟いてから、枢機卿は言葉を繋いだ。 「確かに私は、先日、奇跡をこの身に施されました。それはまさしく、神のみがなせる奇跡です。おそらく、私以外の方々もそれはきっと同じ思いでしょう。 人生の最終章を迎えている老齢な者の患いだらけの肉体を、何不自由ないように若返らせたばかりか、幾多の先人達が望んでも果たし得なかった、神からの声とヴィジョンの啓示をも受けたのです。 だが、私に奇跡を施し、啓示を与えた神は、自らをイエスとも、全能なる父とも名乗らなかった・・・ なんとその神は、我らとこの世界、そして、この世界のすべての神を創った創造主であると名乗ったのです。我らに、敢えて異なる神の名を示したのだと・・・。 そして、その神は言いました。ヴェネチアへ行けと。後日、迎えの者が現れると。世界が光となり、その光の世界の完成を人類が眼にするために、我が僕として、我が言葉を広めよ!と・・・。 正直、私は混乱しました。いったいこれはどういう事なのだ?・・・何が私の身に起こっているのだ?・・・と。 それを確認し、そして、真実を見極めるために、私は今、こうして此処にいるのです。」 自身の心の動揺と混乱を鎮めるため、まるで懺悔をしているかのように、マルディーニ枢機卿は話し続けた。 「バチカンにおいて、今宵のこの異教の者同士の密会を知る者は、私以外にいません・・・この密会の理由と目的を、いったい誰に話せるというのでしょう。我らの神が、異教の神と同一だったなどと・・・。 法王をはじめとする世界中のすべてのキリスト教徒達が、たとえ私の身に起きた奇跡をその眼にし、更には、私の聴いた神の言葉をその耳にしても、おそらく、誰一人として信じはしないでしょう。 そればかりか、彼らはきっとこう言うでしょう。枢機卿のマルディーニは、サタンの手に捕らわれたばかりか、その手下になってしまったと・・・ 願わくば、今宵のこの密会へと続くこの数日の出来事が、ただの夢であってほしいと思っています・・・」 マルディーニ枢機卿の言葉にじっと耳を傾けていた他の二人の長老も、その言葉に頷いていた。 「あなた方三人の心情は、お察し申し上げる。しかし、もうすでに我々は、夢の中ではなく現実の中にこうしているのです。」 マリオが、三人の長老に同情の色を見せながらもはっきり言った。 「枢機卿、思い起こして見てください。イエスが、ガリラヤの湖畔でヨハネの許から旅立った後に、民より受けた熱狂と、エルサレムの支配階級の悪人達どころか、祭司や律法学者達から受けた迫害を・・・。 哀しいかな、真実とは常に迫害の歴史の中にあり、真実の放つ光に気付くのは、宗教的及び政治的特権階級にいる者達ではなく、いつも、普通の弱き人々なのです。 二千年の長い時を経て、我らはそれを学びました。 枢機卿、その間違いを今再び繰り返し、イエスを捕らえて十字架にかけたピラトや、真実の放つ光を無視する偽善者となってはいけません。」 マリオの言葉に、マルディーニ枢機卿は黙したまま深く考え込んでいた。マリオは続けた。 「おそらく・・・迫害の歴史は繰り返されるでしょう。我々は、それぞれの同胞達と、現在の政治的権力者達にとって、彼らの想像を遥かに超えた異端となるのですから。 しかし、よく考えてみれば、我らと同じく、ユダヤの預言者モーゼも、そしてイスラムの預言者ムハンマドも、当時は異端だったのです。偽りの神を崇め、偽善と己の欲望をもって民の上に君臨しようとした者にとっては・・・。 その者達は、真実の放つ光を恐れたのです。自分自身を欺き、神に欺いたのです。己の中にある欲望を叶えるために。 しかし、それもまた、神の計画の一部だったのです。」 「待ってくれ!」 ムハマド師が、マリオの言葉を遮った。 「神は、神に忠誠を誓い、教えに従って歩んで来た我らの同胞を否定するというのか。挙句には、その者達を見捨てるとでも言うのか。それも神の計画だったと・・・」 五本の蝋燭の揺れる小さな炎だけの、決して明るいとは言えぬ灯りの中でもはっきりと見て取れるほどに、ムハマド師の顔は、怒りと興奮で赤く上気していた。 「いいえ、そうではありません。我々はまだ、神の計画の途中にいるのです。我々人類が完全なる光となり、神がその創造を完成させた、すべてのものが完全なる光で形作られた世界の住人となるために。 そのために、神は、我らの中に狡賢く巧妙に隠れ潜んでいる闇を炙り出し、悪を、完全に排除しようとしているのです。」 ムハマド師を真っ直ぐに見つめながら、マリオは静かに落ち着いた口調で言った。 「四十歳という年齢で、神アッラーの啓示を受けた預言者ムハンマドが、その二十二年後に聖地メッカへの巡礼を終え、メディナにおいて、神アッラーの許へと召された後、残された者達の中に巧妙に隠れ潜んでいた闇が蠢き始めました。 偉大なる預言者の死後、信者達ムスリムは、その後継者を巡り、スンニー派とシーア派に分裂しました。闇の中に隠れ潜んでいた悪がほくそ笑んだのです。 それ以後、ムスリムは分裂を繰り返し、時には政治的な権力と結び付いて互いを弾圧さえしています。」 マリオが、アラム・ラビに視線を移した。 「ユダヤの民においても、蠢く闇の中で、悪がほくそ笑みました。 偉大なる預言者モーゼの死後、ユダヤの民は、祭司や貴族を主体とするサドカイ派、それと対立するパリサイ派やエッセネ派に分裂し、互いがその正当性を巡っては確執を繰り返し、サドカイは、他派に対して弾圧さえ行っています。 ユダヤにせよイスラムにせよ、そういった同胞同士の分裂と確執は、更なる闇を誘き寄せては増大させ、今日の世界の混沌へと続いているのです。 混沌としたその世界で、今日までに幾多の純粋が騙りと偽善により抹殺され、血を流しながら失われていった事でしょう。 しかし、流されたその血は無駄にはなりません。その血によって炙り出され、刻印を押された闇は、これより後、神によって排除されるのです。それこそが、神の計画なのですから。 我らに与えられた、異なる言語、異なる肌の色や姿形、異なる神の名、すべてが、神の計画の中にあったのです。」 マリオは、三人の長老の顔を一人ずつ見た。それぞれの長老自身の魂の中で吹き荒れている葛藤の嵐は、まだ静まる気配を見せてはいなかった。 アラム・ラビが、おもむろに席を立ち、胸の前で組んだ腕の片方の手でしきりに顎鬚を触りながら、部屋の中を歩き出した。 「では、何故、私達は神に選ばれたのだ?」 立ち止まったアラム・ラビが、マリオに訊ねた。 「あなたが言うように、我らは異教徒のみならず、同じ神を崇める同胞達とさえ確執を繰り返し、互いの血を流し合って来た。今も尚、繰り返されているその凄惨で哀しい歴史の中に、この私は身を置いている。 あなたを除く此処にいる三人は、あなたの言う、流された血によって炙り出されて刻印を押された、闇を代表する者であり、真っ先に排除されるべき者だ。それなのに何故、神は私達を選んだのだ。」 他の二人の長老も同じ疑問を抱いていたらしく、二人が同時に、マリオに視線を移した。 「わかりません・・・」 マリオは、三人の長老の視線をかわす事なく静かに答えた。 「私にしてみれば、神が選んだ者の中に私が含まれている事の方が、より疑問であり、その理由がわからないのです。 確かに、私はカトリックの敬虔な信者です。現ローマ法王とも多少の親交があり、そこにおられるマルディーニ枢機卿とも面識があります。 だがその一方で、私は狡猾であらねばならぬビジネスの世界に身を置く者であり、私の持つ動機がなんであれ、現在ある地位と富を築くために多くの罪を犯して来ました。おそらく、あなた方三人よりも・・・。 その財と地位を築くために、他者を欺き、陥れ、利用し、排除して来ました。その罪を自覚しながらも、今日まで、自らを欺き続けて生きて来たのです。 私自身の魂はあなた方と同じように、神を渇望し求めていたにもかかわらず、私もまた、神の不在を理由に自らの行いを正当化して来たのです。 今にして思えば・・・私自身が、神の名を騙り、神の代理を気取った偽善者そのものでした。アラム・ラビ、あなたの持つ疑問は、私の持つ疑問でもありました。」 「では何故、我らのように混乱もせず、そのように落ち着いていられるのだ。」 「今、私達に起こっているこの事こそが、私の魂の奥底に私自身が長い間ずっと押し隠していた真の願いであり、私の犯して来た罪の動機だからです。 私達人間から見れば、実に長く不在を装っていた神が、ようやくまたその存在を示し、その証を私に施してくださいました。 確かに、その神の名は、私が幾千回、幾万回と口にした神の名とは違います。神が奇跡と一緒に私に与えた啓示も、まさに驚くべき内容です。 しかし、良く考えてみてください。我ら人間は、いつから、神を我ら人間と同じような存在だと考えるようになってしまったのでしょう。いつから人間は、神が創造を終えたのだと考え出したのでしょう。 冷静になって深く考えてみれば、たかが我ら人間の持つ時間的概念など、神の持つ時間概念と同じであるはずがありません。 我らのいる現在のこの世界を見れば、まだ、我ら人間だけが、未完成のままである事は明白です。それに気付かぬ事こそ、神に対する冒涜であり、最も重大な罪です。 いつのまにか我ら人間は、神に対して傲慢で不遜な者となってしまったのです。 神の計画は、神のみが知るのです。ましてや、たかが我ら人間にその全貌を知る術などあろうはずがありません。 驕ってはなりません。神が私に施した奇跡と、私に与えた啓示により、すべてが明快になり、光り輝き出しました。 もはや私には、いかなる怖れも不安もありません。 アラム・ラビ、ムハマド師、そしてマルディーニ枢機卿、神が何故、我らを選んだのかは知る由がありません。しかし、それが神の計画の一部であるならば、私は喜んでこの身を、神の決定に委ねるだけです。」 マリオの瞳には、確信に満ちた聖なる光が宿っていた。 三人の長老は動揺した。マリオの瞳に宿るその光は、本来であれば、聖職者であり神の存在と守護を確信する者だけが持つべき光なのだ。 自分達聖職者の存在は、その聖なる光を自らの瞳に宿すためにあったはずではなかったか?生涯を賭けて、それを追い求めて来たのではなかったのか? 今、自分達の眼前にいるマリオという一人の老齢な男の瞳には、確かにその聖なる光が宿っているのだ。それなのに何故、自分達は躊躇うのだ。 アラム・ラビは想った・・・シナイ山で、神ヤハウェの声を聴き、そのヤハウェを神として受け入れ、契約を交わした預言者モーゼの心の内を・・・そして己の心の内を。 <かの偉大なる預言者には、迷いはなかったのか?疑いはなかったのか?恐れはなかったのか?今の自分のように・・・? だとすれば、それは何故だ?・・・ユダヤの民のために神が行った数々の奇跡と、轟く神の声故か・・・? このような事は、かつて一度たりとも考えた事はなかった。いや、考える事自体が、神との契約に反するのだ。 だが、考えねばならぬ。これこそが、神が私に与えた試練なのだろうか?・・・ 預言者モーゼの時と同じように、奇跡は起こり、神の声も聴こえた。だからこそ、私は此処にいるのだ。モーゼの時と同じではないか。私は神の声に導かれたのだ。 そして、私の眼の前に現れた男の瞳には、聖なる光が宿っている。私が、ずっと渇望してやまなかった光だ。すべては悪が巧妙に仕組んだ罠だとは到底思われん。 それなのに、何故、私は迷うのだ。何故、恐れを振り切れないのだ。これが、我らの持つ弱さなのか・・・> ムハマド師は想った・・・ メッカ郊外の洞窟において、唯一の神アッラーより啓示を受けた時の、偉大なる預言者ムハンマドの心の内を・・・そして、己の心の内を・・・。 <唯一の神アッラーの声を聴いた預言者ムハンマドには、果たして迷いや疑念はなかったのであろうか?なんの躊躇いもなく、アッラーに絶対の服従を誓ったのであろうか? このような事は考えてみた事もなかった。当然だ、それはコーランの教えに反する。 だが・・・あの奇跡とヴィジョン、そして、私を此処へ導いた声は、まさしく、偉大なる預言者ムハンマドが、アッラーより受けた啓示と同じものではなかったか?・・・ コーランの中にある六信の一つである神の予定は、このマリオという男の言う、神の計画と同じようにも感じられる。 異教徒の指導的立場にいる者同士に、同じ奇跡とヴィジョンを与え、その者達を集らせる事など、神以外に可能なはずはない。己の心の内ではわかってはいるのだ・・・ では何故、私の心はこのように揺れるのだ。幾多のカリフ達が望んでも果たし得なかった、預言者ムハンマド以来の、神よりの啓示が行われたというのに・・・。 私は何を恐れているのだ?・・・同胞達からの非難と弾圧か?・・・確かに、同胞達は決して私を許しはしまい。己の人生の終わりにおいて、私は裏切り者となるのか・・・> マルディーニ枢機卿は想った・・・ ゴルゴダの丘で十字架にかけられ、処刑されたイエスの心の内を・・・そして、己の心の内を・・・。 <イエスは、十字架にかけられたまま迎えた死のその時まで、己を救わなかった全能なる父を疑わなかったのか?天に向かって、全能なる父に願いはしなかったのか?我を救い給えと・・・ 流れては乾き、体にへばりつく己の血を見ても、一粒の砂ほどの絶望も、疑念も抱かなかったのだろうか? 何故、それほどに神を信じ、己の復活を信じられたのか・・・? 私には出来るのだろうか?イエスのように、痛みと渇きに耐えながらも、私自身に訪れた奇跡と啓示を信じる事が?・・・全能なる父が、イエスに代わって異教徒を含む我ら四人をメシヤとしたなどという事を・・・? いや・・・神が私に奇跡を施したあの時、確かに私の魂は喜びに震えた。 幾多の聖人達が望んでも得られなかった、神よりの啓示を受け、溢れる感動に涙を止める事さえ出来ずにいたのだ。私は、心の底では望み欲していたのだ・・・この時を。 確かに、たかが我らの理解など、神の意図に遠く及ばない事はよくわかっている。それなのに、どうして私は躊躇うのだ。 これが我らの抱える罪なのか。神が長らく不在だった間に、我らの内に忍び込んだ闇なのか。 神よりも、現在ある名声と、人々の尊敬の眼差し、そして、それを守るために、人の手によって築き上げられた組織が大事だとでもいうのか・・・ 私は偽善にまみれてしまったのか。心の底ではわかっているというのに・・・> 閉ざされた部屋の中に、長い沈黙の時が流れた。 マリオは確信していた。今、三人の長老は、自分自身に問いかけ、そして戦っているのだ。いつの間にか彼らの内にひっそりと忍び込んだ闇が、ついに炙り出されたのだ。 光と闇の最後の戦い、それは、一人一人の己の内で起こるのだ。己が己自身に問いかける、沈黙という戦場で。 そして、常に光は勝利する。魂がその奥底から震えるほどの喜びと、溢れ出る涙を止める事さえも出来ぬほどの感動が、闇に負ける事などあるはずがない。 ただひたすら、マリオは待った。そして、確信に満ちた眼差しで、三人の異教の長老を見つめていた。 どれ位の時間が過ぎたのであろうか、三人の長老が、顔を上げてマリオを見た。三人の瞳の中には、微弱ながらも、聖なる光の兆しが見て取れた。 ムハマド師がマリオに訊ねた。 「この驚くべき真実を、我が同胞達は理解できるだろうか。」 マリオは答えた。 「神の計画を理解する事など、神以外の何者にも不可能なのです。理解するのではなく、ただ受け入れるのです。神に我らの身を委ね、神に導かれるままに。」 アラム・ラビがマリオに訊ねた。 「我らは、裏切り者として弾圧と迫害を受けるのか。」 マリオは答えた。 「預言者モーゼと、彼に従ったユダヤの民も、預言者ムハンマドと、彼を師事したアラブの民も、そして、イエスと、その使徒達もそうでした。自分達への弾圧と迫害の中、神の言葉のみを真実とした彼らの確信と行いのみが、時を超えて現在へと続いているのです。 何を恐れる事がありましょう。我らが畏れるのは、神のみであり、その神が、我らに使命を与えたのです。」 マルディーニ枢機卿がマリオに訊ねた。 「神は、これからもその言葉を我らに示し、我らの行く道を光で照らすのか。」 マリオが微笑んだ。 「勿論です、マルディーニ枢機卿。」 マリオがそう言い終えると同時に、部屋の中を灯している五本の蝋燭の炎が一斉に大きく揺らめいた。 突然、テーブルの中央にある蝋燭の炎が火柱と化して天井まで真っ直ぐに伸び、四方の壁の蝋燭の炎が、その火柱に向かって斜めに伸びた。五つの炎が形作ったピラミッドの中に、オーロラと同じ七色に蠢く光が現れた。 あまりの驚きに、表情を硬直させながらその光を見上げる四人の老人達に、更なる驚きが襲う。 「我は、創造主であり、完全なる光である。異なる神の名、異なる言語、異なる肌の色を汝らに与え、一切の闇を炙り出して後、汝らを我が許に迎え入れん。 我が命を受け集いし僕(しもべ)の者達よ、我を疑うなかれ。己を欺いてはならぬ。我が言葉を魂に刻め。決して書き記してはならぬ。汝らに与えられた使命を果たし、来たる光の世界に備えよ。」 神の声が轟いた。その声を耳にする者の魂と、体の一つ一つの細胞すべてを震わせるあの声だった。 四人の老人達は、瞬きする事さえ忘れていた。眼の乾きに耐え切れず、四人が同時に瞬きをした瞬間、その光景は忽然と消えた。 神が、その実在を今一度はっきり自分達に示した時間。それは永遠にも感じたが、実際はほんのわずかな時間だった。 だがそれは、マリオを除く三人の異教の長老の瞳に宿り始めていた聖なる光の兆しを、確かな光とするには、十分な時間だった。 マリオが三人の長老を見る。彼らの瞳の中にあった兆しが、今や確かな聖なる光となって輝き出した事を、マリオは見て取った。
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