愚者の門番、賢者の聖杯

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俺がなぜあんな事をしたのか、と誰かに聞かれたとする。 その問いに答える事までに俺は少し口ごもるだろう。 ひどく幼稚で、くだらない理由だから。 俺は質問者から目線を逸らして、煙草のソフトケースを上着の胸ポケットから取り出して慣れた手つきで煙草を咥えて使い捨てのライターで火をつける。 そして、ゆっくり呟くのだ。 「死ぬ時くらい、自分で決めたかったのさ」 【愚者の門番、賢者の聖杯】 そうだ。俺は死ぬ時くらいはせめて自分の意思で死にたかった。 (どうせ、死ぬのに。死にかけの男を殺そうとするから) そう思いながら俺は煙草の煙を深く肺に入れた。 こみ上げてくる不快感と、脳に痺れる快感。喉から抑えられない咳が漏れて、夜の空に響く。 俺の名前、そんなものはどうでもいい。 ただ、俺は呟いている。とめどもなく。 俺は今、東京の海を前にして煙草を吸っているただのやくざだ。 やくざ、というよりも殺し屋だとか、解体屋だとか。そんな下請け商売に近い男だ。 俺と言う男の人生はまるで下らないものだった。いつのまにか、人を殺して金を貰う事が当たり前の人生を送っているが、そのきっかけはどうだったのか、思い出せもしないし、後悔もしていない。自分に対しても他人に対しても無感動なのだ。だから人殺しに向いていた。銃も使えばナイフも毒も使った。車、植木鉢、ごく普通の家財道具ですら、俺にとってはヒトゴロシの道具に見える。そんな俺が唯一愛した物は、煙草だった。 ドラッグは肌に合わない。 快感は過ぎると苦痛なのだ。 紙煙草を咥えて、火をつける。 ジジジ……と音を立てて煙草が燃える。俺の喉を、肺を白い煙が満たせば、他に誰もいらない気がした。 つまり、俺の恋人は煙草だ。 性欲は素早く金で女を買って済ませた。愛というものは俺には不必要だった。必要なのは毒薬だけだ。俺の体を蝕むと知っていても、朝に咳き込みすぎて息が出来なくなっても俺は自分の恋人を愛した。 その結果が四十五にして余命半年、という宣告に繋がる。もちろん、肺ガンだ。嬉しい、と思った。煙草で死ぬなら本望だ。 俺は死ぬときもずっと煙草を咥えていようと思った。俺の中に白い煙を忍ばせてあの世に行きたいと思った。 だが、せっかちな馬鹿が俺を殺そうとした。俺を雇っていたやくざの組長とイキった若い幹部だ。俺は俺以外の人間は信用しない性質なので組長の部屋に盗聴器を仕掛けていた。
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