愚者の門番、賢者の聖杯

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聖杯の中には赤紫の、ワインの赤にも似た、だがそれよりももっと粘り気の強そうな液体が入っていた。自称、神が俺には飲むなと言っていたが、冗談じゃない。こんな得体のしれない色水を飲みたいなどと誰が思うもんかと心の中で毒づきながらジモンに背を向けて門の方向に向き直った時だった。反動でゆらり、と液体が揺れて。 ほんの少し、こぼれた。 (しまった) と思った時に、俺の耳に声が聞こえた。 「こぼすな」 その声は、どこか異質で、くぐもっていた。 ジモンの声か?と振り返った俺が見たものはまず、ジモンの後ろ姿だ。ジモンの顔は応接室の扉の方向を向いている。そして、応接室の扉の前からジモンがいる所まで線になってつづいている液体。 それ、は応接室の扉の前の床から現れた。白い床から、ぽこ。となにかが。俺は最初、白い饅頭まんじゅうかなにかだと思った。円形をしていたからだ。だが、その饅頭には胴体がついていた。饅頭が伸びる。ぐぐぐ、と床から饅頭のような頭部と、それよりも少し細身の、なんと言えばいいのか……うどん、だとかロープだとか。そんなものを連想する胴体がくっついていた。それ、は最初無機質な白だった。 だが、次第に一筋の切れ目が頭部に入り。それが、割れた。 いやそうじゃない。 その切れ目から人間の歯が見えた。それは口だったのだ。 「こぼすな」 それ、ははっきりと言った。 「こぼすな、門番。齧るぞ」 「あ……ああ……わるか、ったよ。気をつける」 「次はないから覚えておけ」 「ああ……」 思わず俺は謝っていた。これは、まずい気がしたからだ。異質、と言う言葉は生易しい。 あれは、悪質だ。 背中や脇に厭な汗が噴き出る。それ、は歯をむき出して、笑ったような顔になった。口だけの、白い蛇。人間の歯がやけに白かった。口内は赤いのか、いまいち解らなかった。ただ、それ、は続けて言った。 「こぼしたな。こんなに、こぼしたな、ジモン」 「ひ……っ」 「戻さなければいけない」 「いや、いやだ」 「啜るか。それとも」 「頼む、ああ……、ああ……、」 「また、中にたらふく注ぎ入れてやろうか、王よ」 「う、うわあああ」 突然ジモンが叫んで振り返った。ジモンは本気で怯えていた。だが、足が動かないようで必死に腕の力で俺の方へにじり寄ってくる。
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