愚者の門番、賢者の聖杯

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愚者。そんな言葉を面と向かって言われたのは初めてだった。むしろ面と向かって言っていい言葉ではない。が、俺は否定しなかった。 数時間前に人を五人殺して、ついさっき自殺しようとしていた男が愚者ではないなどと誰が反論できると言うのか。だから黙って男に続きを促した。 「いいかい、この門の番人は愚者ではないと務まらないのだ」 「どうして」 「ははは……。決まっているさ。善人の、正しき者の為の門だからだ。しかし、門番が善人ではいけない。当てられてしまうからね」 「当てられてしまう?なにを」 「見れば解る」 そう言って、その質問ははぐらかされてしまった。 俺は正直、特に乗り気はしなかった。 百年生きられる体。 だが生きたってつまらないと感じている俺にとってそんな条件は無意味だ。そう思っていると、いつのまにか男は煙草をもう二箱、手の中に持っていた。 「君はこの娯楽品を日に三箱吸うのが人生で最も愉しみな事なのだろう」 「ああ……まあ」 「おまけだ。この一の扉の広間に毎日三箱煙草を置いてあげよう。いつでも取りに来ると良い」 「おい、俺はまだやると言った訳ではないぜ」 「いいや、君はやるのさ。やらざるを得ない」 「なんだって」 「とりあえず、君の肺の病気は治しておいたよ。咳が出ないだろう」 そこで俺は、この門に入ってから一度も咳をしていない事に気が付いた。 息苦しさが全くない。 まさか。 思わず胸のあたりを触りながら男の顔を見ようとすると。 もう誰もいなかった。 俺だけが馴染みのある風景の中にいて、異様なのは背後の大きな門だけだ。 そして応接室のドア。 開けようとしてみたが、鍵がかかっているのか。まったく開く気配がなかった。 仕方がないので机に置いてあった煙草をポケットにいれて、門から帰ることにした。 悪趣味な印が描かれた右手をかざすと、スッ。と門が開く。 そして外に出ると、明るい日差しが俺の眼に飛び込んできた。もう朝なのか。そう思いながら辺りを見回すと。 そこは全くの別世界だった。
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