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「でも、実際に結に会って、結の香りを嗅いで、俺の心は不思議と落ち着いている。本当に生きていたことが、ただただうれしい。それに元気に暮らしているようで安心した」
兄の本当にほっとしたような笑顔に、僕の顔も綻ぶ。
「僕も、本当は兄さんに会うのが怖かった。怒られ、罵られる覚悟をしていたし、僕の中に抑えられない衝動が起きたらどうしようって思ってた」
「俺が怒る?罵る?・・・ありえないよ」
驚いたように言うけど・・・。
「だって僕、兄さんにあんなことをしたんだよ」
あんな、決してしてはいけないことをしたんだ。
「あれは俺の願望でもあったことだ。言ったろ?お前をこの手で汚したいって」
双方が望んでいたら、同意がなくても許されることなのだろうか・・・?
「とにかく、俺はお前を怒る気は無いし、そんなこと考えたこともないよ」
僕が6年間苛まれていた罪悪感を、そう言って兄はあっさり否定した。
「でも・・・結、一つだけ訊いていいか?」
ふと、兄が僕を見た。
「もしあんなことが無かったら、お前は今ここにいたか?」
兄の目が真剣に僕を見つめる。
その目に僕は、首を横に振った。
「留学自体が僕の消える計画だったんだ。外国のきれいな湖で泡になれたらいいな、て・・・。籍を抜いたのは父さんたちに迷惑をかけたくなかったから。もし発見されても、身元不明の旅行者で終わるでしょ?」
僕の言葉に、兄は顔を歪めて下を向いた。
「でもお前は今、ここにいてくれる」
「欲が出たんだ。人魚姫のようにきれいな所で泡になって消えたい。最初はただそれだけだったのに、どうせ消えるのなら最後に兄さんに会いたい。そう思ったらどんどん欲が出て、その香りに包まれたい。その身体に触れたい。そして・・・」
あの時の僕は、悲しいくらいに兄を求めていた。
「すぐにピルを飲むはずだった。だけど、またさらに欲が出てしまって・・・。もしかしたら・・・そう思ってしまったんだ。僕はなんて欲深いんだろうね。本当は渡米してすぐに実行しようと思っていたのに、もしかしたらの可能性がなくなったらにしようと、計画を延期してしまった」
そして僕は今、ここにいる。
「・・・俺はあの夜のことをずっと間違いだと思っていた」
兄は下を向いたまま、辛そうに呟いた。
「頭のどこかで現実だと分かっていても、最後まで夢だったと思い込もうとしていたのは、俺が間違いを犯したと思ったからだ。だけど・・・あの夜があったから、今お前はここにいるんだな。あの子がお前を、この世につなぎ止めてくれたんだな」
その言葉に、僕は兄を見た。
あの子・・・瑛翔のこと・・・?
「あの夜は、決して間違いじゃなかった。結とまた会うために必要なことだったんだ」
兄はそう言うと、その言葉を噛み締めるように目を瞑った。
あの時は、こんな未来が待っているなんて想像もしていなかった。
こんな風に兄とまた話せるなんて・・・。
しばらくお互い黙っていると、不意に兄が口を開いた。
「子供のこと・・・彼女に話していいか?」
その突然の言葉に、僕はびっくりして兄を見た。
話す?
子供のことを?
僕ははっきりとは言わなかったけど、兄はさっき僕と一緒にいた子が自分の子だと分かったのだろう。
だけど、そんなことを話してわざわざ幸せな家庭に波風を立てなくても・・・。
だけど僕の心配をよそに、兄は普通に続けた。
「結婚する時、全てを打ち明けてるんだ。夢のことも全て。彼女にはもう隠し事も誤魔化しもしたくなかったから、全部を話して、それでも俺を許してくれるなら結婚しようと思ったんだ」
そして全てを許してもらえたから、兄は結婚したのか。
すごい人だね、その人。
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