2章「今夜、おまえを抱く」

9/23
前へ
/126ページ
次へ
「いえ、なんでもないです」  一弥を喜ばせたい――。どうしてそんな考えが浮かんだのか、渚は自分でも不思議だった。  イルカライブで観客に喜んでもらいたい、イルカたちが健康で楽しく過ごせるようにしたい、一緒に働く仲間が気持ちよく仕事ができるようにしたい――。渚が仕事をするのは、いつだって誰かのためだ。でも、特定の……誰かたった一人を喜ばせたいと感じたのは、はじめてのことだった。 「渚、ウエットスーツを着たトレーナーが登場したぞ。おまえみたいだな」  一弥の声に、渚は目の前のショーに意識を戻した。ステージでは、ウエットスーツを着た女性トレーナーが頭からプールに飛び込んだところだった。  トレーナーはそのまま深く潜水していく。一頭のイルカが、彼女のあとを追うように泳いでいくのを見て、渚の胸がどきりとした。 「あ……」  あの感じは知っている。「ハイスピン」をするとき、渚が深く潜水したら、ルルがあとを追ってきてくれた。ルルが吻の先で渚の足の裏を押して水面に上昇して、そのまま高く飛翔するのだ。 (まさか……)  息を詰めて見つめる渚の前で、イルカの吻に足を押される形でトレーナーが水面に浮上した。そのまま両手を広げてポーズを取ると、観客席が湧く。  トレーナーはイルカの吻の上から飛ぶことはせず、イルカの体が水面に沈むのに合わせて自分も静かに沈んでいった。それを見て、渚の体から力が抜ける。 (なんだ、違った……)  一瞬、あの女性トレーナーが「ハイスピン」をするのではないかと、そう思った。 「ハイスピン」と似たような技をショーで披露する水族館はいくつかある。けれど、あんなに高く飛べるのも、空中できれいに回転できるのも渚だけだ。渚と、ルルだけが「ハイスピン」ができるのだ。――いや、できていたのだ。  胸が苦しくなった。「ハイスピン」に、自分だけができる技に誇りを持っていたことに、いま気づかされた。  失ったものの大きさに、気づかされた。 「渚? どうした?」  一弥の声で、渚は我に帰った。ショーはすでに終わっており、周りの観客たちはどんどん席を離れていく。 「顔色が悪いぞ」  一弥が心配そうに眉を寄せるのを見て、渚は慌てた。 「あ……いえ、なんでもないです! すごいショーだったので、ちょっと見とれてしまいました」 「ならいいが……。疲れたら我慢せずに言え」
/126ページ

最初のコメントを投稿しよう!

492人が本棚に入れています
本棚に追加