2章「今夜、おまえを抱く」

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「はい」  渚が席から立ち上がろうとすると、一弥が手を差し出してくれた。温かい手のひらに支えられながら立ち上がる。そのまま、二人は手を繋いで歩き出した。 (一弥さんの手、あったかい……)  そのぬくもりが、やさしさが、いまは胸に痛かった。 (わたしは、きっとこんな風に一弥さんにやさしくしてもらう資格はないはずなのに) 「渚? ……おまえ、本当に様子がおかしいぞ」  いつの間にかうつむいてしまっていたらしく、一弥が顔を覗き込んでくる。なんでもないと答えようとした渚だったが、心配そうな彼の瞳を見ると嘘がつけなくなり、黙り込むことしかできなくなってしまう。 「……さっきのショーで、『ハイスピン』を思い出したのか?」  何も言えないでいる渚を見て、一弥が言う。渚は思わず顔を上げて彼の顔を見た。 「……どうして」 「俺は社長だ。自分の会社が運営している水族館のことは把握している。……事故のことも、芹沢から報告を受けて知っている」 「そう、ですか……」 (一弥さん、知ってたんだ……) 「とにかく少し休もう。おまえ、本当に顔色が悪いぞ」  一弥に促される形で、渚は一度テーマパークの外に出た。一弥の車の助手席で休んでいると、彼は温かい飲み物を買ってきて、渚に手渡してくれた。 「……悪かった」  渚の隣――運転席に座ると、一弥は言った。 「おまえに嫌なことを思い出させてしまった」 「そんな、一弥さんが謝るようなことじゃないです……! むしろ、謝らないといけないのはわたしの方で……」 「何を言っている。渚が謝るようなことは何もない」  一弥の言葉に、渚は首を大きく横に振った。 「いいえ! だって、『ハイスピン』はうちのイルカライブの目玉だったんです。それなのに、わたしの問題でプログラムから外さないといけなくなってしまって……」  その「事故」が起きたのは一年ほど前のことだ。「ハイスピン」のトレーニング中、ルルの吻に押されて空中にジャンプした渚は、本来なら水面に落下するはずが、プールの外に体を投げ出される形になり、地面に体を強く打ち付けてしまった。ジャンプした位置がプールサイド側に寄りすぎてしまっていたのだ。  さいわい、右肩を打撲しただけで済み、数週間で仕事に復帰することができた。回復の早さを医師にも驚かれたほどだ。
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