2章「今夜、おまえを抱く」

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 ただ、すべてが元通りになったわけではなかった。怪我が治って、いざ『ハイスピン』のトレーニングを再開しようとしても、できなくなってしまったのだ。 「……他の技なら平気なんです。でも、『ハイスピン』だけは、どうしても……」  飲み物のカップを持つ渚の手に、ぎゅっと力がこもった。一弥は渚の話を黙って聞いてくれている。 「何度も試したんです。でも、ルルに『ハイスピン』の指示を出そうとすると、どうしてもあのときのことを思い出してしまって……できないんです」  あれからプールも改装されて広くなったし、事故自体がめったに起こり得ないことだ。頭ではわかっているのに、プールサイドに放り出されたときの恐怖や、固い床に体を強く打ったときの激痛……ルルに「ハイスピン」の指示を出そうとするたびに、その感覚が蘇ってしまい、どうしても挑戦することができなかった。 「さっきも言ったとおり、『ハイスピン』はイルカライブの目玉で、うちの水族館でしか見られない貴重な演目でした。それなのに、わたし個人の都合で続けられなくなってしまって、申し訳ありません」  頭を下げようとすると、力強い手のひらに押し留められた。 「いや、謝るのは俺の方だ。事故が起きた場合、職員のその後のケアができる状況を作るのも俺の仕事のうちだというのに、辛い思いをさせたままで、すまない」  今度は一弥が頭を下げようとするので、渚は慌てた。 「そんな、やめてください……! わたし、もう本当に元気ですから! 『ハイスピン』は今はできないけど、もっと時間が経ってあのときのことを忘れられたらできると思うし。いや、わからないけど……」  一弥を安心させようとしてそんなことを口走ってみたものの、本当はそんな自信はない。一弥にもそれが伝わってしまったのか、「無理をしなくてもいい」と言われてしまった。 「でも、わたし本当に大丈夫で……」  言い終わらないうちに、一弥がこちらに手を伸ばしてきた。大きな両の手のひらで頰を挟まれる。 「なあ、渚。おまえが怪我をしたのは、体だけじゃないだろう。怖い、辛い思いをして、心にも傷を負ったんだ。その傷が癒えないうちにもう一度『ハイスピン』をしようとしたら、怖くなるのは当然の反応だ」 「当然……?」
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