1章「おまえ、俺の女になれ」

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「はい。うちのマリンパークだと、『イルカライブ』って呼んでるんですけど、わたしも毎日、ウエットスーツを着て出てます」  そう答えると、驚いたような声があちこちで上がる。実際の業務がどうかはさておき、イルカのトレーナーと聞くとどうも華やかなイメージを持っている人が多いので、地味な渚の印象とは大きなギャップがあるようだ。 「前にショーを観に行ったとき、すごい大技をしてて、びっくりした覚えがあるよ。こう、女の子の足をイルカが口の先で押し上げて、女の子がそのまま空中で一回転するやつ」  マリンパークのショーを観たことがあるという男性が、身振り手振りをつけて説明する。彼が言う「大技」が「ハイスピン」を指していることに、渚はすぐに気がづいた。 「ハイスピン」は、渚が担当しているイルカ・ルルとともに編み出した、「アクロス立山マリンパーク」オリジナルの演目だった。水中に深く潜ったトレーナーの足を、イルカが(ふん)(くちばしのこと)の先で押しながら水面に勢いよく上昇し、トレーナーが空中に高くジャンプしたあと、高飛び込みの要領で宙返りしながらあと水面に落ちるというアクロバティックな技だ。  イルカとトレーナーとのタイミングを合わせるのが非常に難しい技であり、イルカチームの中でも「ハイスピン」を成功させた実績があるのは渚とルルのコンビだけだった。 「すごかったな、あの技。見た瞬間に『おおっ!』って声を上げちゃったよ」 「へー、私も観てみたい!」  そう言われて、胸がちくんと痛む。水を差すようで気が引ける思いを感じながらも、渚は口を開いた。 「ごめんなさい。『ハイスピン』は……あの技は、今はもうイルカライブのプログラムには入っていなくて、お見せできないんです」 「え、そうなの?」 「すごい技だったのに、どうして?」 「それは……」  どう答えたらいいものか悩んでいると、「はいはいそこまで」と芹沢が口を挟んだ。 「イルカの体調とか色々あるの。生き物っていうのは繊細で、思い通りにいくことばかりじゃないんだよ」 「そういうものなのか?」 「そうだよ。ほら、みんなグラスが空いてるよ。ドリンクの注文は?」  芹沢がうまく話を逸らしてくれて、ほっとする。渚も何か注文しようと品書きに目を落とすと、ふいに正面から「おい」と声がした。 「おい、おまえ」 (おい? おまえ?)
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