491人が本棚に入れています
本棚に追加
/126ページ
「……ああ、悪かった」
そこでようやく、一弥が手を放す。彼の体温に慣れた手のひらに冷たい外気が触れ、ほんの少し、さっきまでのぬくもりが恋しい気持ちになった。
「せっかくだ、二人で飲み直そう。おまえはいつもどこで飲むんだ」
「わたしですか? うーん、あんまり人に紹介できるお店は知らないんです。いつも同じところだし」
「どんな店だ」
と聞かれて、渚はよく行く店の名前を挙げた。チェーンの水産系大衆居酒屋で、職場の近くにあるのでよくそこで食事をするのだ。
「よし、ではそこに行こう」
と、一弥が迷いなく言うので、またもや渚は驚かされた。
「一弥さん、そんなところでいいんですか」
「ああ。おまえの気に入りの店に行きたいんだ。連れて行ってくれ」
そう一弥が言うので、渚は行きつけの居酒屋に彼を連れていった。大漁旗の飾られた、漁師小屋を思わせる内装の店内は、仕事帰りのサラリーマンで賑わっており騒がしいことこの上ない。渚は今さながら不安になり、隣にいる一弥を見た。
「一弥さん、もし落ち着かなければ、別のお店でもいいですよ」
一弥は渚の問いかけには答えず、店内をぐるりと見渡している。やがて、ため息のような声を漏らした。
「これは、すごいな……!」
「え?」
「すごいと思わないか、渚。この店の田舎くさい雰囲気。まるで映画のセットみたいだ。こんな店が実際にあるなんて……感動した」
「感動って……、もしかして、はじめて来たんですか?」
「ああ、はじめてだ」
「うそ。だって、このお店、チェーンで都内には山ほどあるのに」
渚の驚きをよそに、一弥は興味津々といった様子で店内を見渡している。席に着いてからも、妙にいきいきした瞳でテーブルの上にあるものを手に取りはじめた。
「渚。この機械はなんだ?」
「機械じゃなくて、コンロですよ。それで炉端焼きをするんです」
「炉端焼きとはなんだ」
「ホタテとか干物をこのコンロで焼いて食べるんです」
「それは興味深いな。食べてみたい」
(興味深いなって……。この人、普段どんなもの食べてるんだろう……?)
とりあえず、一弥はこの店に来るのがはじめてだということはわかったので、品書きを見ながらおすすめの料理を教えてやることにした。
最初のコメントを投稿しよう!