1章「おまえ、俺の女になれ」

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「……ああ、悪かった」  そこでようやく、一弥が手を放す。彼の体温に慣れた手のひらに冷たい外気が触れ、ほんの少し、さっきまでのぬくもりが恋しい気持ちになった。 「せっかくだ、二人で飲み直そう。おまえはいつもどこで飲むんだ」 「わたしですか? うーん、あんまり人に紹介できるお店は知らないんです。いつも同じところだし」 「どんな店だ」  と聞かれて、渚はよく行く店の名前を挙げた。チェーンの水産系大衆居酒屋で、職場の近くにあるのでよくそこで食事をするのだ。 「よし、ではそこに行こう」  と、一弥が迷いなく言うので、またもや渚は驚かされた。 「一弥さん、そんなところでいいんですか」 「ああ。おまえの気に入りの店に行きたいんだ。連れて行ってくれ」  そう一弥が言うので、渚は行きつけの居酒屋に彼を連れていった。大漁旗の飾られた、漁師小屋を思わせる内装の店内は、仕事帰りのサラリーマンで賑わっており騒がしいことこの上ない。渚は今さながら不安になり、隣にいる一弥を見た。 「一弥さん、もし落ち着かなければ、別のお店でもいいですよ」  一弥は渚の問いかけには答えず、店内をぐるりと見渡している。やがて、ため息のような声を漏らした。 「これは、すごいな……!」 「え?」 「すごいと思わないか、渚。この店の田舎くさい雰囲気。まるで映画のセットみたいだ。こんな店が実際にあるなんて……感動した」 「感動って……、もしかして、はじめて来たんですか?」 「ああ、はじめてだ」 「うそ。だって、このお店、チェーンで都内には山ほどあるのに」  渚の驚きをよそに、一弥は興味津々といった様子で店内を見渡している。席に着いてからも、妙にいきいきした瞳でテーブルの上にあるものを手に取りはじめた。 「渚。この機械はなんだ?」 「機械じゃなくて、コンロですよ。それで炉端焼きをするんです」 「炉端焼きとはなんだ」 「ホタテとか干物をこのコンロで焼いて食べるんです」 「それは興味深いな。食べてみたい」 (興味深いなって……。この人、普段どんなもの食べてるんだろう……?)  とりあえず、一弥はこの店に来るのがはじめてだということはわかったので、品書きを見ながらおすすめの料理を教えてやることにした。
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