忘れない。

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「ねえ、覚えてる?」  白い床が、赤く染まっていく。  液体だったその赤は時が経つにつれ少しずつ固まり、変色していく。  赤から黒へと。 「覚えてる?私の事を」  覚えている?ああ確かに知っている。  この女は確か、同じマンションに住んでいる……数回、廊下や入口で顔を合わせた事がある気がする。  そう、知り合いというほどでもない。ただ顔を知っているだけの……  なのに。  その声とその質問が、何故か心に突き刺さった。  深々と刺し抉るそれは、その中から何かを引きずり出そうとしてる気がして。 「……許さない」  それが誰の声なのか、一瞬分からなかった。  許さないーー誰を?  誰が誰を許さない?  教会内には悲鳴と逃げ惑う人々の足音が響いている。  何人かが自分に向かって「逃げろ!」「早くこっちへ!」と必死に叫んでいた。  けど、それは全部、自分の意識からどんどんと遠ざかっていって。 「許さない……」  もう一度繰り返し、やっと分かった。  それが自分の声だと。  そして自分は誰を許さないかを。  目の前には、その手と黒いドレスを赤く染めた女。  その女を必死に睨み上げる自分の腕の中には、白いドレスを着た彼女。  ほんの数分前に、ここで永遠の愛を誓った。  死が二人を分かつまで、と。  その直後、彼女はその死によって遠い所に連れ去られた。  黒いドレスの女は、その手だけが異質だった。  スラリと美しいラインを描くその体型にはそぐわない大きく筋張った手と、フックのように太く伸びた爪。  その爪が、彼女を。  この世界で誰よりも愛している彼女を切り裂いた。 「ねえ、覚えてる?私の事を」 「ああ、思い出したーー許さない。俺は、絶対に」  こうやって、何度も奪われてきた。  愛する人を。 「絶対に忘れない……」  何度奪われようと。  何度殺されようと。 「絶対に……俺はお前の物にならない」  振り上げられる異形の手。  その禍々しく伸びた爪の先から滴り落ちる、愛する人の血。  思い出した、何もかもーー覚えている。全部。これからどうなるかも。 「絶対に愛するものか……!」  今度は自分に向かって振り下ろされる爪。  ただの人間に恋焦がれ、その人間に決して愛される事のない、そして愛し方も分からない哀れな化け物の爪が。  もう何度、繰り返しただろうか。  人生の最後に見るのはいつだって。  その化け物の虚ろな瞳に映る、憎しみと哀れみで歪んだ自分の顔だった。 ◇◇◇  ああ、いつだってそうだ。  こんなに愛してるのに。  魂はこの爪の間からすり抜けていく。  欲しいのは肉の塊じゃない。  その肉の中にあった筈の、あなた自身。  なのに、何度繰り返しても。  あなたのそばに、人間のふりをして近づいても。  私からあなたを奪う人間を殺しても。  あなたは私を愛してくれない。
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