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5 Graund Zero-2
「父さん……」
サイモンはそっと地面にしゃがみ、石に刻まれた犠牲者達の名前のひとつを震える指先でなぞり、ひそりと呟いた。
俯いた横顔はあらかたフードに隠れて見えないが、パーカーの生地にポトリ、と水滴が落ちて、小さな染みがひとつふたつと見下ろすJの視界で滲んで、彼がひどく悲しんでいることは察せられる。
しかし……
ー父……だって?ー
Jが連邦政府のデータベースからハッキングしたサイモンのプロフィールでは、サイモンの父親は、カーティス上院議員。フィラデルフィアを地盤とする有力政治家で、よく名を知られている。
Jはサイモンが愛おしそうに、懐かしそうに指を触れている名前を盗み見た。
ーサー・アルバート・グレアム・ラッセル……ねぇー
Jは、9.11の犠牲者全ての名前を知っているわけではない。と言うよりも殆ど知らない。だが、刻まれた名前にSirという称号が付いているというということは、おそらくは英国の上流階級の人物だろう。
ーこいつはアメリカ人じゃないってことか?ー
Jはそれ以上考えることは止めた。
サイモンの言葉が上流階級の英国語であることには合点がいった。
上院議員の息子であれ、英国貴族の息子であれ、身分卑しからざる身であり、自分とは遠くかけ離れた世界の存在であることは確かだ。
だが、それよりも今は、悲惨な事件の記録を前に小さく背を縮こませて、冷たい石の前に踞っている青年の姿が胸に痛かった。
「コーヒーでも飲みに行くか?」
ややしばらくして、すっかり冷えた肩に手を置くと、フードに隠れた頭がコックリと頷いた。
「ホテルまで、来てくれる?」
サイモンはゆっくりと立ち上がり、名残り惜しそうに今一度、刻まれた名をじっと見つめたまま、呟くように言葉を漏らした。
「あぁ……」
Jは短く答えて、サイモンの肩にそっと手を置いた。
榛色の瞳が、雨に濡れた小鳥のように小さく瞬かれて、寒さに色褪せた頬がほんの少し微笑んだ。が、その表情はやはりひどく寂しげだった。
「私の父は、ビジネスマンで……あの日、WTCを商談のために訪れていた。そしてあの事故に遭った」
サイモンは俯いたまま、深い木立の木もれ陽を縫うように踏みながら、ぽつぽつと語り始めた。
「……商談がまとまったら、私を迎えにきてくれる筈だった」
「迎えに?」
「理由はわからないけれど、二人は離婚協議中で、その年の夏は私はずっとテネシー州の祖母の別荘に預けられていて……。親権は父が取るから必ず迎えに来る、という連絡を受けたばかりだった」
サイモンは溜め息をひとつ溢し、言葉を続けた。
「父の死によって、離婚は無くなった。未亡人になった母は私を連れてある人物と再婚した」
「それがカーティス上院議員か」
「まぁ……ね。当時はまだ政治家じゃなかったけど」
サクリ……と足許で病葉が掠れた音を立てた。
「義父は悪い人じゃなかったけど、私は母と不仲でね。亡くなった父に良く似た私を、母は嫌っていたんだ。瞳も髪の色も父に似て、嫌な過去を思い出すって、随分とキツく当たられた。……それで、義父が私を父方の実家に預けたんだ」
「そうか……」
「父の実家は、傍流だけどイギリス貴族の名門とかいうやつで、両親の不仲もつまりは、父の実家と母の確執が元なんだけど……」
サイモンの父は三男で、本来は家を継ぐ立場では無かったが、それでもアメリカ女性との結婚には難色を示したという。
「父の兄達には男の子がいなかったのもあって……私は祖父に養育されることになった」
「けど、あんたはこの国に帰ってきた。何故だ?」
Jの言葉にサイモンは小さく口を歪めた。
「義父……アンドリュー・カーティスは母と結婚した時、私を養子縁組してるんだ。そして、私が改めて父の実家、ラッセル家と縁組をすることに難色を示した」
「なぜ?」
Jの問いにサイモンはますます皮肉めいた口調で吐き捨てた。
「父と義父は親しい友だったからね。だから、親友の息子の私は自分の息子も同然だ、ってね。成人して大学を終えた私に、アメリカに帰ってハーバードの院に入るように指示したんだ……母とはもう離婚してたんだけどね」
「だったら……?」
「まぁ政治的思惑ってやつだろうね。国際社会ではイギリス英語が公式だから、外交や国際会議に連れ歩くには良いと思ったんだろうね。……私の今の仕事もそんなもんだし」
「そうか……」
上院議員には既に州議会で活躍している長男がいる。他にも二人くらい子どもがいたはずだ。エリート社会の構想はJには測りかねたが、それよりも引っ掛かったのは、別なことだ。
それを見透かすようにサイモンはなかば白けたような口調で付け加えた。
「母はどこぞの実業家と再婚して上手くやっているよ……数年前にはそう聞いている」
それより……とつぶらな眼がJを見上げた。
「そんなことより、早くコーヒーが飲みたい。……寒くなってきた」
「そうだな……」
二人は一度だけ後ろを振り向き、そして悲しみの地を後にした。
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