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Introduction 1
ブルリ、とひとつ男は大きく背中を震わせた。
夜の帳の降り始めた街はしんしんと冷え、男の痩せた身体の芯まで染み込んでくるようだ。
古びたコートの襟を立てて、雑踏の中を擦り抜けながら、男はふっとシャツの胸元に手をやった。
そして、溜息とも安堵ともつかぬ小さな吐息をひとつ溢し、ゆらりと歩みを続ける。
繁華街を抜けて裏路地に入ると人の姿はぱったりと途絶える。人混みの喧騒がはるか遠くに過ぎて、所在無さげな男の靴音だけが、濡れた石畳にやけに鮮明に響く。
男はスプレーで乱暴に落書きされた壁に凭れ掛かり、徐ろにゴソゴソと胸元を探った。
手にはクシャクシャになったマルボロのパッケージ。男は紙屑になりかかったその中からヨレた両切りの煙草を抜き出して火を点けた。
――チッ……――
最後の一本になったそれを口の端に咥えたまま、男はパッケージを骨張った手の中で握りつぶして、再び路地の奥へと足を向けた。
男の歩みに寄り添うように、ゆらゆらと紫煙が揺れ、濃い闇の中に漂い消えていく。
微かな人の気配。
男はピクリと一瞬頬を歪めたが、小さく首を振っただけで、構わずに先へと足を進めた。
――ここか……――
男は目を細めて色褪せたネオンを見上げた。
『papillon(パピヨン)』というその文字は不規則な点滅をうっとおしく繰り返し、まるで死の直前にもがいている蝶の羽根を連想させる。
『彼は役目を終えたんだよ』
幼い日、少年だった時代に、彼の幼馴染みがひそりと呟いた言葉がふいに男の耳底に甦ってきた。
雨上がりの泥濘んだ地面で色褪せた羽根を必死に羽撃かせていた蝶にそっと差し伸べた彼の手をやんわりと抑えて幼馴染みの少年は言った。
『そっとしておいてあげて……。彼はきっと大きな役目を終えて、満足しているんだから』
『大きな役目?』
怪訝そうに眉をしかめる彼は、幼馴染みはコックリと頷いた。黄金色の髪がサラリと揺れて、雲の間から差し込む陽の光を散らして、とても眩しかった。
『バタフライ・エフェクトって知ってる?』
『バタフライ・エフェクト?』
幼馴染みは緑色の宝石のような瞳で彼をじっと見つめた。
『小さな蝶の羽ばたきが大きな変化を嵐を生むんだって……詳しくはわからないんだけど、彼らが起こした小さな風が嵐を呼び起こすんだって』
『じゃああの土砂降りもか?』
彼はますます眉をひそめて口を尖らせた。昨日も一昨日もひどい雨だった。田舎の町ごと流されてしまうんじゃないか、と彼は真剣に心配した。
幼馴染みは薄紅の唇でふふっ……と笑って言った。
『それは分からないけど……もしかしたら、もっと大きなことかもしれない』
『大きなこと……ねぇ』
彼は、幼馴染みの少女のような美しい横顔に妙に胸が騒いだ。そして……。
――昔の話だ――
男は独りごちに言葉を凍えた煉瓦の壁に吐き捨てて、無愛想な鉄のドアを押した。
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