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3 Stormy monday-1
その日、ニューヨークは雨だった。
Jはのっそりと立ち上がり、ホコリまみれのブラインドに指を掛けた。
篠突く雨に視界は全て閉ざされて、激しい水音だけが絶え間なく続く。
まるで街ごと洗浄機に突っ込まれたような眺めに小さく唇を歪め、ラジオのスイッチを入れた。雑音混じりの古いブルージーなメロディを背中で聞きながら、マルボロの苦味を深く吸い込む。
と、何もかもが白くけぶる中にポツリと人影が見えた。叩きつける水飛沫に激しく打たれ、時折左右に揺れるようによろけながらも一心に前に進んでいる。この街には珍しいグレーのスーツは、まるで海流に逆らってでも泳ぐことを止めない回遊魚のようだ、とJは思った。
やがて、その姿は視界から消え、傾きかけたJの事務所がせわしなくノックされた。
広告も出していないJの探偵事務所に訪れる客はまずいない。近所の物好きな老婦人が夕飯のお裾分けを持ってきたり、『猫を探して』と子どもたちが押し掛けてきたり……一度、運良くJの事務所の近くでゴミを漁っていたのを見つけたのがマズかったのだが。
それ以外は、「仕事」の情報屋が小遣い稼ぎがてら顔を覗かせるくらいのものだった。
Jは、念のため、コルトを臀のベルトに隠して、ドアの前に立った。
慎重にドアノブを握り、そっと、ごく細くドアを開ける。
隙間から覗いた来訪者はぐっしょりと濡れた髪を額に貼り付かせ、全身から水を溜らせて、僅かに覗いたJに青ざめた唇を震わせて微笑みかけた。
「あの……こちらの探偵事務所の方ですよね?中に入れていただけませんか?……寒くて」
血の気の失せた両手を胸の前で擦り合わせ、懇願する訪問者をJは素早く一瞥し、中に招き入れた。背後に人の気配は無い。用心深く後ろ手でドアを閉め、鍵を掛けてから、改めて来訪者に対峙するぐっしょりと濡れて身体にぴったりと貼りついたグレーのスーツのラインには、不自然な膨らみは無い。背格好から、おそらく先程、街中を彷徨っていた人物に間違いない。
歳の頃は二十七、八といったところだろう。ひどく綺麗な顔をした、ここいらでは見かけない身なりの良い、知的で上品な空気をまとっている。
ーーエリートビジネスマンって奴か?ー
Jはあまりにもこの街に不似合な青年に思わず眉をしかめた。
この街に若いエリートビジネスマンなどいないし、まず寄り付かない。当然、Jにそんな知り合いはいない。
たとえ「仕事」の依頼人がエリートであっても、Jが直接顔を合わせることはないし、メディアに垣間見える彼らは、大概が老練で、その眼に暗い色を宿している。
Jは何か釈然としないものを感じながら、同時に妙に懐かしい感覚を覚えた。
「で、どのようなご要件ですか?……この雨じゃあ、猫は見つかりませんよ。どこかの温かい居心地の良い場所に隠れてる」
戸惑いながら、だが慇懃に皮肉めいて問いかけるJに、青年は口許をわずかに歪め、苦笑を漏らした。
「探しているのは、猫じゃない……」
そして、聞こえるか聞こえないかの小さな声で呟くと、突然、その場に崩れ落ちた。
「おい、あんた……!」
慌てふためいてその濡れた身体を抱き上げるJは、彼の唇から漏れたかすかな声に気付くはずも無かった。
ーーやっと見つけた……ーー
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