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4 Englishman in N.Y.-2
「私にもコーヒーをもらえるかな?」
ふとJが振り返るとサイモンがドアにもたれて立っていた。
シャツから覗くスラリと伸びた足の艶めかしさにJは一瞬、生唾を呑みそうになった。
が、それと同時にまだ良いとは言えない顔色に眉をしかめた。
「熱は下がったのか?」
「たぶん」
「嘘をつけ」
カップを片手に歩み寄り、サイモンの額に手を当てる。まだ少しばかり熱いように感じるのは、彼がほんのりと頬を染めているせいばかりではないだろう。
「まだ熱が下がってない。大人しくベッドに戻れ」
「コーヒーが欲しい」
むくれるサイモンに、Jは小さく頭を振った。
「病人はホットミルクだ。ウィスキーを入れてやるから、ベッドで大人しく待ってろ」
サイモンは口を尖らせ、上目遣いでJを少し睨んだ。が、すぐにニッと笑った。
「ラテがいい」
「わかった、わかった。早くベッドに戻れ」
「了解、早くね」
クルリと背を向けてサイモンがベッドルームに消える。Jは、ほとんど空に近い簡易冷蔵庫からミルクを取り出し、マグカップに注いでレンジにかけた。
気持ちばかりにコーヒーを足し、瓶の底にわずかばかり残ったターキーを垂らした。
「ほらよ」
何処から探し出したのか……と言うより、まぁその辺に放り出しておいた毛布を肩に掛けて、サイモンは大人しくベッドに座っていた。
「ありがとう」
Jの差し出したカップに手を伸してニッコリと笑うその様は、まるで無邪気な少年そのままで、お高くお堅いエリートらしくなさすぎて、Jはますます奇妙な気分になった。
「シャツ一枚じゃ寒かったな。済まん」
サイモンはそれには答えず、スン……と毛布に鼻をつけて、匂いを嗅いだ。
「これ、軍用?……戦争に行ったの?」
「あぁ、平和維持活動とかいうヤツでな……まぁ詭弁だがな」
「……でも、Jが生きて帰ってくれて、良かった」
サイモンは小さく口元を歪め、そして改めて毛布にくるまって微かに笑った。
「……砂漠の太陽の匂いだ」
「もう残っちゃいない」
Jは、苦虫を噛み潰すように苦笑い、そして、小さく息をついた。
「もう一回薬を飲んで、少し寝てろ。熱が引いたら送っていってやる」
「何処へ?」
サイモンのしれっとした問いにJは大きく溜め息をついた。
「タイムズ・スクエアまでは送ってやる。……後は知らん」
「なぜ?」
不思議そうにキョトンとした顔で一層まじまじと顔を覗きこむサイモンにJは思わず頭を抱えた。
「悪いが、お前の財布を覗かせてもらった。中までびしょ濡れだったからな。……そしたら、現金が全く入ってねぇ。10セント硬貨さえ、だ」
「あぁ、タクシーで料金を払うのに、使っちゃったんだ」
途端にJ《ジェイ》は顔をしかめた。
「キャブに?幾ら払ったんだ?」
「100ドルと50セント。……くずれないから釣りが出せないとか言われたから、そのまま渡した。……カードでの支払いも拒否されたし」
「あのなぁ……」
「ストリートを一本間違えていたのに気付いたのは降りた後で、さ。……地図はびしょ濡れになるし、角のショップの店員に聞いてやっと辿り着いたんだ。だから御礼に残っていた紙幣をあげた。……まぁ10ドルが一枚こっきりだったけど」
Jはあんぐりと口を開けたまま、言葉が無かった。
「10ドルもチップを渡すヤツがいるか。……ここいらじゃ大金だぞ?!」
「そうなの?……大概の支払いはカードで出来るから、あまり気にしなかったけど」
「まったく……」
ボリボリと頭を掻きむしり、Jはジロリとサイモンを睨んだ。
「地下鉄の乗り方くらいはわかるよな?」
「サブウェイ?……あ、地下鉄のこと?……乗ったことない」
「はぁ?」
Jはあんぐりと口を開けた。
「オフィスまでは歩いていけるし、周辺は車を使うから……」
「じゃあ、ここまで来るのに車を使わなかったのか?」
「道がわからない。飛行機なら早いし」
「それはそうだが……」
ーーエリートってのはまったく……ーー
Jは口の中でボヤきながら言葉を続けた。
「いいか。この辺のヤツは柄が悪い。お前のゴールドカードで乗車券を買おうものなら、目を付けられて物陰に引摺り込まれるのがオチだ。……だからタイムズ・スクエアの乗換駅までは付いていってやる。ただし、有料だ」
ボディガードの料金を貰う、と言うJに、サイモンはぷっと頬を膨らませた。
「ホテルまで付いてきてくれないの?」
「あのなぁ……」
上目遣いに顔を覗き込む円な瞳にJはまたひとつ大きなため息をついた。
「ザ・プラザなんて高級ホテルじゃ俺たちみたいな怪しげなヤツは前を通っただけでも警察を呼ばれかねないんだ。厄介事は御免だ」
「じゃあ、ホテルには帰らない」
「はあぁ?」
突拍子も無い発言に硬直するJにサイモンは平然と言い放った。
「行きたいところがあるんだ。……セントラルパーク、ブロードウェイ……それと、グランド・ゼロ」
「まさかと思うが、お前、ニューヨークは……」
「始めてだよ」
あっけらかんと答えて、サイモンはニッと笑った。
「ちゃんと寝てるから、熱が下がったら、ダイナーで食事がしたい。着るもの無いけど、Jのを借りれば大丈夫だよね?」
Jにはもはや返す言葉が無かった。
確かにさんざん雨に濡れたサイモンの高級品のブランド・スーツはヨレヨレで見るに耐えない状態ではある。が、彼とサイモンでは6インチ(約15センチ)は背丈が違う。手足の長さも当然違う。
「適当な店に行くまででいいからさ」
悪びれることもなく、アッサリと言って、サイモンは再びベッドの中に潜り込んだ。
ーーお登りさんのツアコンかよ……ーー
溜め息混じりに窓の外に目をやって、Jはふっと表情を変えた。
人気の戻った街路にそれでは済まない気配がチラリと顔を覗かせていた。
ーー日当を弾ませるか……ー
ホテルまでなんとか無事に送り届ければいい。
Jはそれで依頼を終わらせるつもりだった。
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