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4 Englishman in N.Y.-4
「随分、混むんだね」
ガードするJの腕の隙間からひょっこりと顔を覗かせて、サイモンが少しばかり驚いたように囁いた。
「まぁ大概はこんなもんだ……あんま顔を出すな。デカい声も出すな」
眉をしかめるJに、サイモンがなぜ?と言わんばかりに首を傾げる。
「怖いお兄さんにナンパされたくないだろ?」
「まさか……」
Jの言葉にクスクスと笑うサイモンの顔をなおさら外に見えぬように隠して、Jは厳しい表情で言った。
「ここの地下鉄は必ずしも安全なわけじゃない。お前みたいなお登りさんは、いいカモにされる」
実際、ヤバい風体の輩が二人、三人こちらを窺っているのがわかる。Jは肩越しにその連中を威嚇しながら、それ以上にひとつ向こうのドアの傍に立つビジネスマン風の男の視線に注意を向けていた。
ーーあれは、カタギじゃねぇなーー
腕の中で、ある意味ホケッとした顔をしているサイモンがヤバい『何か』を隠していることは薄々と感じていた。
Jは改めて、呑気なエリート青年の顔をまじまじと見た。
「何?なんかついてる?」
Jの視線にニッカリ笑うサイモンに思わず深い溜め息が漏れた。
「こんな締まりのない顔で、よく官僚が勤まるなぁ……」
「酷いなぁ」
ぷっと頬を膨らませるサイモンの腕を唐突にJの手が引っ張った。
「降りるぞ」
「えっ?」
閉まりかけたドアから身を滑り出させるようにホームに転び出る。と同時に車両が車体を軋ませて眼の前を走り去った。あの男が窓際に張り付いて悔しそうに顔を歪めているところを見るとあながち勘は間違っていなかった、とJは改めて思った。
「どうしたの?」
とまるっきりお登りさんの少年丸出しで尋ねるサイモンは半ば溜め息混じりに答えた。
「乗り換えるんだ」
目的のSOHOには一本でも行ける。だが、同じ駅から乗ってきた怪しげな男を警戒して、わざと乗換駅まで乗り越したのだ。
「複雑なんだねぇ……」
「いいから、早く来い」
脳天気に路線図を眺めるサイモンの手を引っ張って、別な路線に乗り換え、目的地に辿り着いた頃には、既に昼近くになっていた。
Jがサイモンを誘ったのは、SOHOも外れの方にある、およそ流行っているとは言い難い店だった。
全体的に古びた雰囲気で、サイモンが見回した限りでは、可愛いウェイトレスの姿も無い。
「おや、遅いご出勤だねぇ」
二人の姿を見留めると、昔は可愛かったであろうベテランのマダムがピッチャーとグラスを二つ、傷だらけのテーブルに置き、何気なく傍らの窓のロールカーテンを降ろした。
「いつも悪いな」
「構いやしないよ」
Jの言葉に軽くウィンクして、マダムは注文の用紙を手に取った。
「あんたはいつものでいいね、ルー。そっちの坊やはどうする?」
「オススメは?」
ちょっと不思議そうな顔をした後で、悪びれる様子もなく、サイモンはマダムに微笑みかけた。
「ウチはホットドッグが売りだけど、口に合うかねぇ」
半分照れているのか、居心地悪そうに突っ慳貪に答えるマダムにJが、苦笑いながら答えた。
「こいつは英国紳士だからな。まぁニューヨークの味を試したいんだそうだから、店主ご自慢のホットドッグにフレンチフライド・ポテトを添えてやってくれ。俺はチップスな」
「飲み物は?」
「俺はコーヒーを。濃いめで頼む。……お前は紅茶がいいか?ミルクにするか?」
Jの軽口にサイモンがあからさまに不機嫌そうに眉を寄せた。
「私もコーヒーにしてくれ。紅茶は嫌いなんだ」
「だ、そうだ」
「はいよ」
マダムがカウンターの方に消えたところで、サイモンが仏頂面で抗議を始めた。
「私は子どもじゃない。……それにイギリス人じゃない。米国国民だ」
「今は、だろ?」
Jはマルボロに火を点け、サイモンを文字通り煙に巻くように笑った。
「あんたの言葉は、紛うことなきクイーンズ・イングリッシュだ。単語も違うし、そんな綺麗な発音はここいらの人間はまず使わない。……だから、目立つからあまり喋るな。訳は後でじっくり聞かせてもらう」
Jの言葉に、サイモンは小さく唇を歪めたが、僅かに肩をすくめて口を開いた。
「子どもの時に、英国の祖父に預けられて、大学を出るまで放置されていただけさ。……ところで、君こそ、『ルー』って何?探偵事務所の看板は確かヘインズってなってたけど?」
サイモンの追及に、今度はJが口元を歪めた。
「この辺りでの俺の仇名だ。俺はヘタレだからな」
「ヘタレって……そんなことないだろ?だって……」
言いかけたところで、Jの指が、サイモンの言葉を制した。
「俺はまともな稼業も出来ないヘタレなのさ。だからチンケな探偵事務所なんぞを開いてチンタラやってる。……真剣な依頼なら、もちっとまともな奴をあたったほうがいいぞ。サイモン坊や」
Jの口ぶりにサイモンはますますムクレて唇を尖らせた。
「私は坊やじゃない。……それに、私の依頼は、君でなきゃ駄目なんだ」
真剣を通り越して、鬼気迫るサイモンの眼差しにJは思わずたじろぎ、そして、ひとつ深い息をついた。
「まぁ詳しい話はメシを食ってからにしよう。……ちなみに俺の名前は、リック・ヘインズだ。いいな?」
Jは念を押すようにサイモンをじっと見た。
Jにとってそれはただの偽名ではない。養父が何処からか見つけてきたその名前は、謂わば彼の形見のようなものだ。
「じゃあ、とりあえずリックでいい?」
サイモンはあっさりと首肯すると、にぱっと笑った。
「Mr.ヘインズだ」
渋い顔をするJに、サイモンは殊更にこやかに拒否した。
「そんな他人行儀な呼び方はやだよ。リック、仲良くやろうよ」
「お前なぁ……」
Jは、あっけらかんとホットドッグのプレートに手を伸ばすサイモンに言葉が出なかった。
妙に生温いマダムと店主の眼差しを無視して、自分のホットドッグにマスタードをこれでもかと塗りつけて口へ運ぶ。
「詳しい話は……グランド・ゼロでするよ」
あまりの辛さに咳き込むJの耳許をかすめたサイモンの呟きは何故かひどく哀しげだった。
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