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5 Graund Zero-1
グランド・ゼロは、SOHOから更に南、チャイナタウンやリトル・イタリーを超えたダウン・タウンにある。
「まぁキャブを使うほどの距離でも無いんだけどな……」
ダイナーの前で捕まえたタクシーにサイモンを押し込み、Jは小さく舌打ちをした。
「お前さんを歩かせたら、かなりの確率で引ったくりに遭いそうだからな」
「ヒドいな……」
ものの数分の移動でも、不特定多数の人間の目には触れないほうがいい、とJは判断した。懇意の情報屋が、例の怪しげな男をチャイナ・タウンで見かけた、とチラリと洩らしていたのも気にかかる。
ーー何を隠してやがる……ーー
フードの中から物珍しげに辺りを覗うサイモンの顔を横目で流し見ながら、Jは、無邪気な表情の奥にある『何か』を測り兼ねていた。
「着きましたぜ」
「ありがとよ」
メモリアル・パークの入り口近く、WTCの側に車が止まると、カードを出そうとするサイモンの手を押し留め、皺くちゃになった五ドル札を運転手に握らせて、Jは、サイモンと共にアメリカで最も衝撃的な事件の現場に降り立った。
「タクシー代なら私が出したのに」
ボヤキ半分に呟くサイモンに彼は、また小さく息をついた。
「ブラックカードなんか出したら、顔を覚えられて面倒なことになるだろうが」
サイモンはまだ、不服そうに口を尖らせていた。が、ふとJがメモリアル・パークの敷地内に入ろうとすると、ためらいがちに彼の袖を引いた。
「待って」
「なんだ?」
「花が買いたいんだ……」
見れば傍らに小さな露店の花屋が出ている。おそらくは知人に手向けるための花を購う人のための小さな花束がカラフルな色彩が揺れていた。
「どれでもいいか?」
コックリと頷くサイモンの手に適当な一束を押し付け、おおよそ花屋とイメージのかけ離れたパンクスタイルの青年に5ドルを手渡した。
「悪い……手持ちが無くて」
「経費で計上するから問題ない」
申し訳なさそうに俯くサイモンの肩を軽くポンと叩いてツインタワーのあった敷地へと足を踏み入れる。
都会の中心地に鬱蒼とした木々に囲まれて、そこはあった。
かつて二棟の高層ビルが天高く威容を誇っていた場所は清らかな水を湛えたモニュメントに変貌していた。
かつて建物の基礎であった部分、今は滝のモニュメントと呼ばれる二箇所の四角く切られた水面を囲む石には、突然降り掛かった災難に生命を落とした人々の名前が刻まれている。
WTCと呼ばれたツインタワーで勤務していた人々、救出に向かい巻き込まれた消防士や警察官達、そしてハイジャックされ凶器と化した二機のボーイング767の乗客と搭乗員達。だが、当然の事ながら、自ら狂気のテロリズムの実行犯として砕け散り、死んだ男達の名前はここには無い。
ーここが……ー
Jは、口の中で小さく呟き、目を伏せた。
その事件が、9.11が起きたのは、彼がミシェルと出会った年の秋だった。
Jの町の人々の多くはいつもと変わらない日常の中にあり、彼方の都会で起きた大事件を知ったのは夕方、食卓を囲んでいた時だった。
珍しく家にいた父親がTVから流れてくるニュースの映像に釘付けになっていた。
真っ青に晴れた空の下、二機のジェット機が旋回して、巨大な銀色に光るビルの脇腹に突っ込み、同時に真っ黒な煙が上がる。
まだ幼かったJには、いや彼ばかりでなく現場から遠く離れた片田舎の住人達には、それは映画のプロモートか何かのようにしか見えなかった。
それが現実の出来事で、アメリカという絶対的な国家にテロリズムによって空けられた風穴……それは地図上ではほんの小さな点だが、彼らの信じてきた『神話』に黒々とした穴を穿つ忌まわしい事件だと実感できたのは、もっと後のことだった。
だが、実感の無いJや彼の母とは異なり、Jの父は硬く表情を強張らせ、真っ青な顔でその画面を凝視していた。
そして、色を失った唇が聞こえるか聞こえないかの小さなかすれた声で呟いていた。
『何てことを……』
その日から、Jの父はひどく不機嫌になり、出稼ぎの仕事に出掛けるその朝まで、始終苛立っていた。
夜遅くまで酒を煽り、かと思うとリビングで真っ暗な中でじっと何時間も虚空を見つめていた。
そして、仕事に出掛けるその朝、まだ陽も昇りきらない中、寝惚け眼のJを抱きしめて、『母さんを頼む』と囁いた。
今だかつて無かった父のその行為にJは少し吃驚したが、『長い仕事になる』と言われて、ただ訳も分からずに頷いていた。
テロリスト達のこの国への潜入に力を貸していたのが、父の関わっていた組織であり、その証拠の隠蔽に父親が激しく反発していた、とJは養父から聞いた。
『私はそれ以前に組織とは絶縁していたが、彼は……お前の父はそれが出来なかった。監視から逃れるためには、お前を自由にするには、一命を投げ打つしかなかったんだ』
養父の言葉は、その頃のJには不可解だったが、母親と駆落ちした屋敷の使用人が実は組織の人間だったと知って大いに腑に落ちた。父と母は愛し合っていたわけではなく、互いを監視していたのだ。
そして、父が亡くなったことで母の役目は終わった。
母は、秘密裏に緩やかに処分されたのだ。
Jが自らの悍ましい過去に瞑目する傍らで、サイモンはひたすらに誰かを探していた。
そして、ぐるりと巡る石の墓碑銘の中にその名前を見つけると、静かに膝をつき、花束をそっと置いた。
「父さん……」
サイモンの唇は確かにそう呟いていた。
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