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Introduction 3
「待たせたかな?」
男の耳に彼よりは幾分軽やかな、規則正しい足音が階段を降りて、彼の傍らで止まった。
「いや……」
男は目を眇めて足音の主をチラリと覗った。
絹糸のような淡いブロンドの髪がサラリと揺れる。切れ長の綠石の瞳、朝露を帯びた薔薇の花弁のような唇。スッキリと通った小ぶりな鼻筋と雪花石膏のような白い肌は、男にとって羨望の一言だった。彼、Jは彼の民族の特徴である鉤鼻と浅黒い膚があまり好きでは無かったから。
「私にも同じものを」
涼やかな、だがあまり抑揚の無い声音にバーテンダーが静かに頷く。
男は、武骨なグラスに唇を寄せて琥珀色の液体を喉に流し込む横顔に小さく吐息を吐いた。
「ん?」
少しばかり小首を傾げてこちらを窺う面は童顔で、二十代前半、下手をすれば十代にすら見える。
ーー本当にふたつしか違わないのか、こいつは……ーー
靭やかな白く形の良い指先には綺麗に手入れされた桜の花弁のような爪。スルリと男の煙草の箱に伸びたそれは、妙に艶めいて見える。
「私も一本もらっていいだろうか?」
「構わないが……」
答えて男は指先で煙草の箱を少し押し出す。
「スリーファイブか。珍しいね」
「マルボロが無いんだ」
仏頂面で答える男に花の顔が、ふふっ……と微笑う。
「ストライクは?」
「仕事の時にしか吸わねぇ。知ってるだろ?」
「知ってる」
クスリと笑ってしなやかな指が煙草を抜き出し、上品過ぎる口元がそれを咥えた。
「火をくれないか?」
「あ、あぁ……」
Jは自分の咥えた煙草に火を点け、『彼』の方にジッポの炎を差し出した。が、『彼』の指がジッポの蓋を器用に弾いて、炎は消えた。
「違うよ」
「サイモン?」
『彼』の瞳がふいと蠱惑的な光を帯び、伸ばされた腕がJの頸を引き寄せた。
ふたつの煙草が先が触れて、灯火が瞬時、明るく燃え上がった。
「ありがとう」
妖しい笑みがゆったりと煙を吐き出す口許を彩る。
Jは思わず額に指を当てて、大きな息をついた。
「どうしたの?」
口をへの字に曲げて黙り込んだJの顔を円な瞳が覗き込む。
「いや、警察に見つかった時の言い訳をちょっとな……」
Jは、皮肉めいた口調で煙を吐き出し、バーボンを飲み干した。
「警察?」
「この国じゃ未成年に飲酒喫煙を勧めたら、幾ら罰金を取られるんだぃ?」
Jの軽口に、『彼』はぷっと頬を膨らませた。
「非道いな。私はもう三十路になっている。爵位も継いだ」
「じゃあ、貴族に非行を促した罪は?」
「そんなものは無い」
ふたりの軽口の応酬に苦笑いしながら、バーテンダーがJの空いたグラスに手を伸ばし、幽かに微笑んだ。
「ターキーは何年のものに?」
「いや……」
バーテンダーの言葉にJは小さく首を振った。
「ジャック・ダニエルズにしてくれ」
「かしこまりました」
Jの言葉にバーテンダーが頷き、そして『彼』のサイモンの瞳が揺れた。
ジャック・ダニエルズはテネシーウィスキーだ。バーボンでもあるが、テネシー州の醸造所で限られた材質の木で燻蒸される。
そして、テネシーは、彼らの、Jとサイモンには忘れられない、懐かしい土地だ。
「私も貰おう」
『彼』ーサイモンはJをじっと見つめ、そしてバーテンダーに視線を移した。
「テネシー・クーラーにしてくれ」
「畏まりました」
バーテンダーが磨き上げられたタンブラーを手に取り、氷を入れて、サイモンの前に置いた。
バーテンダーはシェイカーにウイスキー、クレーム・ド・ミント・グリーン、レモンジュース、シュガーシロップを入れ、シェイクする 。
氷を入れたタンブラーにシェイクされた酒を注ぎ、冷やしたジンジャービアで満たせば、鮮やかな緑色の、サイモンの瞳と同じ色のカクテルが出来上がる。
「どうぞ……」
サイモンは差し出されたタンブラーを掲げ、J《ジェイ》のショットグラスに軽く合わせる。
「テネシー川の色だ……」
サイモンはうっとりと呟く。
そして、Jはそのカクテルの言葉を思い浮かべ、そして思い出した。
自分と彼、サイモンの『あの日の約束』を。
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