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1 Old days-3
「名前、教えて」
何度か一緒に遊んだ後、少年は躊躇いがちにJの横顔を窺いながら尋ねた。
Jは少しだけ躊躇って、そして『J』だと答えた。
無論、ちゃんとした名前はある。だが、この美しく高貴な存在に自分の素性を明かす気にはなれなかった。
――この人と俺とは違うんだ……ーー
彼は美しかった。
整った顔立ちだけではなく年齢的には少し小柄な肢体や雪のように白い肌や花のように微笑む笑顔も仕草も、田舎育ちのJには、男女を通り越してとても地上の存在とは思えないほど優美で気品があった。
微かに漂う年頃に似合わぬ色気というか艶やかさに、心臓が煩くなることにだけは困惑していたが。
「J?」
「そう、裏切り者のJUDEだ」
聞き返す少年にJは投げやりに答えた。
町の住民はみな敬虔なクリスチャンだった。そして別な大陸から虐殺を逃れて流れてきた流れ者に皆、辟易していた。
支配階級の農場主や親方に差別されて苦しんできた黒人でさえ、彼らを侮蔑的な眼差しで見た。
ー主を売った裏切り者ー
決して豊かではない町の利益をどこの馬の骨ともわからない流民に分け与えることを嫌って、二千年も前の裏切り者の子孫と侮辱し、疎外したのだ。
彼らの目論見によって、Jの家族以外の集落の人々は町を出て行った。
残ったJと両親は学校や町の連中に揶揄され、虐げられ続けた。
『卑しいjudeめ。お前達に名前なんか要らないだろう。あっちへ行け!』
彼らはJにそう言って石を投げた。
だがしかし、彼の父親は町を離れようとはせず、事ある毎にJに言い続けていた。
ーー何処に行こうと、俺たちは裏切り者なんだ。だから、ここでひっそりと生きていく。生きていかなきゃいけないーー
その言葉の真意を知るにはJはまだ幼すぎた。けれど彼の父親の悲しそうな表情にただ頷くしかなかった。
吐き捨てるようなJの言葉に少年は険しい表情になり、Jの眼をじっと見つめた。
「そんなこと言わないで。Jは僕を助けてくれた、立派な騎士じゃない。人種なんか関係ない。騎士は人を裏切ったりしない。」
「そんなこと、わかんないよ……」
Jは少年の子どもらしからぬ圧に思わず目を伏せて、ポソリと呟いた。
すると少年はすっと立ち上がり、洞窟の隅に隠してあったJのナイフを手に取った。
そして、これ以上ないくらい真剣な眼差しで、再びJに向き直った。
「じゃあ誓って。決して裏切らないって。……僕だけは裏切らないって。ずっと僕の騎士でいてくれるって……」
Jは半ば呆気に取られながら、だがその華奢な少年の鬼気迫るような、抗し難い圧に知らぬ間に頷いていた。
「じゃあ、騎士の誓いをしよう」
少年は薔薇の花が綻ぶような優雅などこか妖しげな微笑みを浮かべて囁いた。
「騎士の誓い?」
「膝をついて……頭を下げて」
変わらず呆然としながらも、言うがままに地面に両膝をついて頭を垂れるJの肩にナイフを当てて、少年は澄んだ声で謳うように語りあげた。
「汝、Jよ。そなたは今この時より我が騎士なり。故に謙虚であれ、誠実であれ。礼儀を守り、裏切ることなく欺くことなく、我に対せ。弱者には優しく強者には勇ましく、己の品位を信じて堂々と振る舞え。我れを守る盾となれ、我れの敵を討つ矛となれ。そなたは崇高にして忠実なる我が騎士であるその身を忘れるな」
「あの……」
「誓って!」
唐突な成り行きに狼狽えるJを毅然として見下ろすその姿は、何故か文字通り主の威厳に満ちているように、彼には見えた。
「……誓います。わが主よ」
茶番だ、とJは思った。だが、その茶番に付き合っても良いと思えたのは、少年の眼差しが異常な程真摯で真剣なものを感じたのと、何故か心が震え、勇気が湧いてくるような気がしたからだ。
Jは、その時まさに、自分が姫君に跪く騎士になったような気がした。
物語と違って彼の騎士が跪いたのはアーサー王ではなく、姫君なのだけれど。
何故かそれが正しいことのように、J《ジェイ》には思えた。
Jの言葉に、少年はほっと息をつき、にっこりと笑って、自分もJの前に膝をつき、そっとJの前髪をしなやかな指で分けて彼の額に、既に塞がってはいたが紅くくっきりと残ったあの傷に、そっとキスした。
「ありがとう、J。大好きだよ。ずっとずっと君は僕の騎士だよ。裏切り者なんかじゃない。……僕がそんなことさせない。どんなに遠くにいても、僕は君を守るから、必ず僕を守るって約束して、J」
少年は睫毛が触れ合うほどの距離で深い緑の瞳でJの両の眼を見つめ、鬼気迫るほどの真剣な声音で囁き、そして《ジェイ》の唇にその唇を触れた。
「な、何すんだよ。……」
顔を真っ赤にして、どぎまぎしながら抗議するJに、ふふっ……と薄紅の唇が笑った。
「僕の初めての口づけ、あげたんだから、誓いは絶対守ってね。二度と自分を裏切者なんて言わないで。君のJはjusticeのJなんだから」
少年の言葉に十歳のJはこっくりと頷いた。
その日から少年はJの「姫君」になった。
はにかみながら教えてくれた「姫君」の名前は、ミシェル。
それ以外はやはり教えてくれなかった。
だが、束の間の騎士道物語はJの灰色の日々に少しだけ、少しだけ彩りをくれた。
その夏は確かに楽しかったから。
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