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2 Smoke get in your eyes〜煙が目に滲みる〜-1
Jを引き取った父親の友人という男は、彼の父親よりもやや歳上で、軍人あがりらしく屈強な体格をしていた。
メンフィスの男の家はひどく重厚な造りで、そして人の出入りが極端に少なかった。Jは実業家と名乗るこの男が、いわゆる堅気ではないことは、鋭く底光りするような眼光と隙の無い身のこなしで察せられた。
そしてこの家で学んだことは銃火器の扱いと体術、そしてどのような場面でも生き延びるために必要な術の数多だった。
そのうえ、『俺には教えきれないことがある』と、遅れていた学力を身に着けさせられ、大学に叩き込まれた。
「父親のように終わりたくはないだろう?」
男は、かつて父親の上官だった、とJに語った。正確には、彼は某国の諜報員であり、父親とともに任務に就いたこともあったという。
そして父親は任務に失敗して死んだ、と聞かされた。
「ヤツは俺にお前を頼むと言った。果たす気の無い任務に赴き、『裏切り者』の自分を消すために」
男は声をひそめ、小さく吐き捨てるように言った。
当然、任務は失敗。Jの父は口封じのために消された。
「あいつはこの国を愛しすぎた。憎みながら、その愛を捨てきれなかった」
驚愕して混乱で立ちすくむJ《ジェイ》に男は続けた。
「ヤツはあの大統領に夢を見たんだ。救世主のようにあの大統領が見えたんだろう……自由と平等とを掲げたあの男が、な」
Jは父親が自らを『裏切り者』と言い続けていた本当の意味を知った。
だが、結局、大統領は失脚した。彼の掲げた政策は過去の英雄の影に執着する者達によって激しく拒絶された。
次の、大統領になったのは、旧い体制の権化とも言うべき父の組織の出身者だった。組織は、旧体制の栄誉を復活させるべく、組織内部の粛清にかかった。
Jの父に課せられた任務は謂わばその試金石だった。
「ヤツはお前に組織の手が及ぶことを恐れた。だが、お前には選ぶ権利がある。父親の『裏切り』を償うのも、この国の奴らと組んで、父親の仇を討つのも、お前の自由だ。いずれにせよ、お前が生き延びるのに必要な術は教える。後はお前が選べ」
「何故?」
訝しげに尋ねる|Jに男は深く溜め息をつき、遠くを見つめて、答えた。
「あの国は崩壊する……遠からず、な。内側から腐って、既に腐りきってる。俺やお前の父親が若い日に見た希望なんぞ、何処にもない」
あの国は、国家は彼らを裏切った。掲げた崇高な理想わー自らの足で踏みにじった。
それ故に男はその国と手を切った。諜報員時代に培った人脈を駆使して、実業家となり、同時に暗殺者の元締めとして影の力を奮って、生き延びたのだ、という。
「親父の死を無駄にするな」
Jは無言のまま、与えられた部屋に戻った。
父親はいわれのない差別に苦しみ、その恨みから取ってはならない手を取ってしまった。そしてこの国で生きていくために家族をつくった。だが、家族との日々は父親の中に家族への愛とこの国への愛着を生んだ。
ーー父さん……ーー
あの田舎町から持ち出したちっぽけな宝物を、小さなジャックナイフと一枚のハンカチを見つめて、J《ジェイ》は静かに涙を溢した。
あの日、ミシェルが、彼の姫君が額の血を拭ってくれたハンカチは、彼にとって唯一の『祝福』だった。
窓の外から、咽ぶようなブルースが流れていた。
男はJを養子にし、学校へは男の息子として通った。
無口で、他人と交わりたがらないJにはこれという友人も出来ぬまま、月日は過ぎた。
Jは、答えを見つけられぬまま、大学を卒業し、軍隊に入った。
砂漠の戦場で考えに考えぬきながら数年を過ごした。幾度か命を狙われたこともあった。戦場の真っ只中であれば、銃の誤射はやむを得ない。
Jは養父の男の言葉が偽りではないことを痛感し、戦慄した。
地獄を生き抜き生還したJは軍を辞め、故郷を捨てることを決めた。
養父は家を出ていくと告げたJを引き止めなかった。
父親が残した幾ばくかの金と、どこからか手に入れた見知らぬ男の身分証明書を渡し、小さく十字を切った。
「今までのお前は死んだ。新しく生きろ。お前の父親の分まで自由に、な」
Jは黙って頷き、男に背を向けた。背中越しに小さな呟きが耳に触れた。
「神のご加護のあらんことを……」
養父と会ったのはそれが最期になった。
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