ポップコーン・フレンド

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「ねえ、覚えてる?.... 」 私はあの雨の日のことを思い出していた。 晴天だった空に突然やってきた暗い色の雲は、雨嫌いの莉子ちゃんを不安な気持ちにさせた。遊べるものがないかと探していた私の目に飛び込んで来たのは、公園の隅に忘れ去られたビニール傘。手に取って開いてみると意外ときれいだった。私たちは順に色を塗っていくことにした。私は大好きな青色、莉子ちゃんは緑… 最後の面は透明のままにした。気がつくとポツポツと雨が降り始めていた。雨はどんどん強さを増していた。少しのあいだは楽しそうだった莉子ちゃんの顔がまた曇った。 「よーし!この傘で冒険の旅に出よう!」わざと元気な声で私は立ち上がった。莉子ちゃんは渋ったけれど、先に楽しいことが待っている気がして「あそこの木まで行って帰ってくるだけ」と半ば強引に誘った。 その頃にはどしゃ降りになっていたので、公園から外へ一歩出た途端、ボタボタボタと大粒の雨粒が傘に当たる音で耳がいっぱいになった。「雨、すごいね!」と同じ傘の中にいる莉子ちゃんに言ったのだけど「うん…」という聞き取れないほどの返事が聞こえただけだった。 しばらくは静かに雨音だけを聞きながら歩いていた。ふと上を見上げるとビニール傘を通して上から降ってくる雨が見えた。 「莉子ちゃん、虹!」私は叫んだ。唯一の透明の面から、莉子ちゃんは空にかかる本物の虹を探していた。 「本物のじゃなくて。雨が虹みたいになってるの」 「ほんとだ。虹の雨になってる!」いつも人に上手く説明できなくてもどかしいのに、莉子ちゃんが私の伝えたいことを理解してくれたことがうれしかった。そして、世界中で私たちだけが虹色の雨を作っている気がした。  「虹製造機だね」私はワクワクする気持ちで続けた。「それで虹をいっぱい作ったら、空に架けようよ」 「うふふ。虹工場の工場長だね」 「工場長だって!!」莉子ちゃんもうれしそうだった。私たちはいろいろな物を見ることに忙しくて時間を忘れた。その傘を通して見ると、ビンクの紫陽花は紫に、黄緑のアマガエルは真っ黒になった。2人ともはしゃぎすぎて全身ずぶ濡れになった。 「楽しいね!」 「うん!」私たちは笑い合った。 私の中の思い出が眩し過ぎて、莉子ちゃんへの初めての手紙は書き終わらない。 莉子ちゃんとは高架下の陽の当たらない公園で出会った。 その日はお正月3日目で、つけっぱなしのテレビの音とビールの臭いが混ざった大人の世界から逃げ出してきた。 結構人見知りする方だけど気づいたら自然に遊んでいた。ずっと前から知っていた気がしたぐらい自然だった。莉子ちゃんがどこに住んでいるとか兄弟がいるかとか大きくなったら何になりたいとか、そんなことどうでも良かった。私たちはお互いの苗字さえ知らなかった。莉子ちゃんが莉子ちゃんで、私は私で、それだけで良かった。それが大事だった。 毎年、同じ日にここで会おうね、と約束した。毎日じゃなく、時々でもなく、1年に1度、1月3日に会う、という約束だった。 「来年も、再来年も、再々来年もずっとだよ」と莉子ちゃんは言った。 「さささ来年も、ささささ来年も、さささささ来年もずーっと?」と私は不安げに聞いた。 「そう。ささささささささささ来年もずーっと!」莉子ちゃんは輝く笑顔を見せた。 それから二人で「さささささ…」と早口で何回「さ」を言えるかを競争した。途中で莉子ちゃんが笑い出して、私も釣られて笑った。お腹がよじれるまで一緒に笑い転げた。 その夜、布団に潜って「さささささ…」と小声で言ってみた。楽しい気持ちになって走り出したいぐらいだった。一人なのに全然寂しくなかった。 学校では普通に話す友だちもいたし、誰かの誕生日会に呼ばれたり放課後に運動場で泥だんごを作ったりすることもあった。でも莉子ちゃんみたいな友だちはどこにもいなかった。クラスでリーダー格の女の子を中心とするグループがあり、その下かそのまた下ぐらいのグループに属していたと思う。いじめるタイプでもいじめられるタイプでもなく、率先してリーダーシップを取ったり積極的に何かを提案することもない代わりに、誰かを攻撃したり批判や否定することもなかった。極力平和に穏便に1日を終えることを毎日の日課としていた。 家では3人兄弟の末っ子だった。上の二人は10以上も年が離れていて、もう自立して家を出ていた。だからほとんどひとりっ子みたいなものだった。 表面上はうまくやっているけど不仲な両親と時々訪ねてくる祖父母や親戚がいて、周りはみんな大人ばかりだった。大人には大人の世界があり、なんだか複雑で大変そうだった。私はできるだけ大人たちに迷惑をかけないように「大人しくて、手のかからない子」として生きていた。普段から周りに気を使いすぎて迷惑のかけ方もよくわからなかった。親に反抗したり兄弟げんかしたりできるクラスメートがうらやましかった。 2回目の1月3日。この日は緊急ポストを作ることになっていたから、お気に入りの空き箱持参で行った。莉子ちゃんはハサミとセロテープと透明なガムテープと強力粘着テープを持ってきてくれた。「テープ、どれがいいかわからないから全部持ってきた!」 1年前に毎年会う約束をした時、「何かあって会えなかったらどうしよう」と私があまりにも不安げに言うので、「緊急ポストを作ろう!」と莉子ちゃんが提案してくれたのだった。 それは親と輸入食料品店に行った時に買ってもらったシリアルの箱だった。箱のイラストには、赤色や空色や黄色で彩られた小さなドーナツ型のシリアルが散りばめられている。いつか使おうと大事に取ってあったので今日がその「いつか」だった。まず手紙の投函部分を長方形に切った。後は濡れてもいいように箱の中も外もあらゆる箇所をガムテープでぐるぐる巻きにした。 「これ、どこに置こう?」 雨風をしのげて誰にも見つからないところ…「そうだ、ベンチの下にしよう!」二人でベンチの下をのぞきこんで、しっかりと大切に貼り付けた。 「じゃあ、緊急の時は手紙をポストに入れること!」 「わかった。緊急の時ね!」 また別の1月3日。公園の外は晴天だった。車も人もいなくて、寒いけれど空気が澄んでいて気持ちが良かった。 「この〜木、何の木、気になる木〜」私が歌うと、 「見たことのない木ですから〜」莉子ちゃんが続けた。 その公園に唯一ある木の周りを、手を繋いでぐるぐる回りながら「…見たこともない木になるでしょう」というところまで一緒に歌った。 「ねえ、この木、何の木?」あらためて莉子ちゃんに聞かれて私は見上げた。 「ここに何か書いてある!」莉子ちゃんに言われて見ると木の名前が書かれた札が幹にくくりつけてあった。 札の字は擦れていて埃まみれで、まともに読めたのは「ポ」の字だけだった。 「ポ、ポ… ポのつく木って?」 「ポ、ポ… ポピー?はお花?ポインセチア?はクリスマスの、あれもお花だね」 「ポンカン?は果物の木?」 「うん、多分。食べたことないけど。ポンカンって伊予柑の仲間?」 「わかんない」 私は普段することのない「提案」をした。 「じゃあ、この木にポのつく名前つけてあげようよ」それから私たちはポのつく物の名前を順にあげていった。 ポニー、ポメラニアン、ポイ捨て、ポムポムプリン… 「ポップコーン!」 「いいね、ポップコーン!」私たちはニンマリした。なんだかしっくりきた。 「これから命名式しようよ!紗良ちゃんが命名式長ね!私はアシスタント」 自分が誰かに提案したり推薦されて代表になるなんて、人生で初めてのことで恥ずかしかったけどうれしかった。 命名式に何をすればいいのかわからなかった。何となく石とか塩とか水とかそういった物が必要な気がした。塩はなかったから、白い柔らかい石を固くて大きな別の石で粉々にして塩の代用にした。その手作りの塩は大切に葉っぱのお皿の上に置いた。莉子ちゃんは有能なアシスタントとして、神聖な石と塩を木の周りに供えた。命名書を作るための紙も鉛筆もなかったので、拾ってきた木の枝で土の地面に「ポップコーンの木」と書いた。 私は咳払いをして、うやうやしく言った。 「それでは命名式を始めます。本日よりこの木をポップコーンの木と命名します。」 アシスタントの莉子ちゃんが公園の水道から汲んできた水をそっと木の幹にかけた。パンパン、と2拍手をして二人で手を合わせた。命名式には全然関係ないけど、さ✖️(かける)百万回年先もずーっと莉子ちゃんと友だちでいられますように、とお願いした。目を開けて莉子ちゃんを見ると、目をぎゅっとつぶって何かをお祈りしているみたいだった。だから私ももう一回目をつぶって、片目でチラチラ見ながら莉子ちゃんが目を開けるのと同時ぐらいに目を開けられるよう頑張った。命名式の後は清々しくてとても暖かい気持ちだった。きっと莉子ちゃんも同じだっただろう。 何度目かの1月3日。莉子ちゃんは現れなかった。一人きりでずっと待っていたけれど来なかった。親には友だち3人で小学校の裏の堤防で遊んでくると伝えてあったが、親戚の集まりに出かけなくてはならないので16時までには帰るよう言われていた。そして、その日はとうとう莉子ちゃんに会えなかった。 それからしばらくは毎年あの公園に行っていた。今年こそ会えるんじゃないかと信じて行っても、やっぱりいなかった。中3のお正月は受験勉強で忙しかったはずだったから、中2の1月3日に行ったのが最後だったと思う。 私は地元の普通レベルの高校に行って普通の高校生活を送った。 塾や習い事の掛け持ちをしたり新しくできた友だちと日曜日に電車に乗って買い物に行ったりした。 学校の昼休みにはジャニーズで誰が一番好きかで盛り上がったり、家では体重を気にしてご飯の量をこっそり減らしたりした。 普通の高校生として我ながらうまく生きられていたと思う。でも、本当の自分を見せることができたのは莉子ちゃんだけだった。 莉子ちゃんはどこに行ってしまったのだろう。 高校を卒業して隣の県の大学に進んだ私は一人暮らしを始めた。バイトもしていたがそれでは足りなくて、毎月決まった額の仕送りを親にしてもらっていた。 大学のキャンパスでも私は比較的うまくやっていた。サークルのみんなでカラオケに行ったり、食堂でゼミの友だちから先週欠席した英米法の講義ノートのコピーをもらったりした。語れるような将来の夢もなく、彼氏もいなかった。 ある日曜の朝、莉子ちゃんからの手紙を読んでいる夢を見た。夢の中の私は今と同じ大学生で、あまり好きでもないけど流行りの服を着てネイルとピアスまでしていた。せっかくの莉子ちゃんからの手紙を読みながらもお気に入りのミュールが公園の土で汚れないように気にしているところなんて、自分の嫌な部分を暗に指摘されたみたいですごく嫌だった。 その年の冬休みに実家に帰った時、1月3日まで待ってあの公園に行ってみた。 ポップコーンの木の隣にあるベンチ。シリアルの箱で作ったポストはそのベンチの真下に貼り付けてあった。緊急時のため、と言って二人で作ったポストは、土や埃や排気ガスや蜘蛛の巣で真っ黒だったが、まだちゃんとあった。  莉子ちゃんの字は子どもが書いた大人の字のようにも、大人が書いた子どもの字のようにも見えた。 「紗良ちゃんへ 約束守れなくてごめんなさい。 ある時から、ここに来られなくなってしまいました。 もっと早くに手紙を届けたかったのだけど、どうしてもできませんでした。 紗良ちゃんに会えて良かった。紗良ちゃんの前でなら本当の自分を見せることができて楽ちんだったよ。 私が見たことのない私を見ることができたのも、紗良ちゃんのおかげ。 だから、ありがとう。 困った時、悲しい時、うれしい時、私はずっとそばにいるから。 紗良ちゃんなら何があってもきっと大丈夫! 私たちはポップコーンの木の下で出会ったから、ポップコーン・フレンドだね。さ✖️(かける)百万回年先も、ずっと。 莉子より」 こういうときに泣けたら映画みたいでカッコいいのだろうけど不思議と涙は出なかった。うれしい気持ちと物哀しい気持ちと、信じたい気持ちと信じたくない気持ちが混ぜこぜになっていて、よくわからなかった。一瞬、夢の中にいるかと思ってマンガでやるみたいにほっぺをつねってみたけれど、普通に痛いだけだった。 莉子ちゃんはどこから来て、どこに行ってしまったのだろう。 そして、あの頃の私たちは「緊急」の意味がわかっていたのだろうか。 その夜、家に帰ってから気づいた。現実の私は、莉子ちゃんからの手紙を読むときにミュールが汚れることなんて気にもしていなかった。私は、私が思うほど嫌なやつじゃないのかもしれない。 冬休みが終わって、また大学生活が再開した。 片想いしていた人に彼女ができたと聞いた時、祖母が肺炎で亡くなった時、サークルでちょっとしたイジメにあった時、莉子ちゃんからの手紙を読み返した。両親が離婚すると兄から電話で聞いた時は、あの公園のポストに手紙を書いたら莉子ちゃんから返事が来るかな、と思ったりもした。そしてそんな話がどこかの映画や小説にあった気がした。でも、もし返事が来たら…いや来なくても、それはそれで別の悩みが増えそうで行動に移す勇気はなかった。まだ二十歳そこそこの私だけど、世の中にははっきりさせない方がいいことがあると知っている。 これから先、私の人生にはもっともっと辛いことが起こるのだろう。それと同じぐらい楽しいこともきっと。誰かと恋に落ちたり友だちと旅行に行ったり、親孝行したり大切な人と別れたり、私はたくさんの経験を通してたくさんの感情に触れていくのだろう。 実家に帰れば「手のかからない一番下の子」として、大学では普通の女子大生としての自分を卒なく演じている。この先、愛する誰かのために物分かりのいい彼女でいようとしたり強いお母さんや孫に甘々のおばあちゃんでいようしたりする日も来るのかな。他人に合わせたり集団に溶け込もうと努力したりしていると次第に心が疲れてくる。たまに本当の自分がわからなくなる時もある。 だから、ぼっちは意外と嫌いじゃない。 今、莉子ちゃんが隣にいたら話したいことがいっぱいある。誰にも話せない悩みもきっと莉子ちゃんになら全部言える。でも本当に会えたら、うれしくて何も言えないのかな。一緒に時間を過ごせるだけで心が満たされて、もういろんなことがどうでもよくなってしまうのかもしれない。 あの頃の私は莉子ちゃんに毎年会えると信じて疑わなかったけれど、ちょっぴり大人になった今は当たり前じゃないことや永遠じゃないことがあると知っている。今という時間は、後から振り返ると今思う以上に貴重だったりするんだ。 莉子ちゃんと私はポップコーン・フレンド。 私たちはお互いの苗字さえ知らないけれど、莉子ちゃんが莉子ちゃんで、私は私。それだけで良い。それこそが大事。
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