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「ねえ、覚えてる?」
妻の奈美が優しく微笑んだ。甘い吐息が僕の耳にかかる。くすぐったくて、僕も思わず笑ってしまう。
「もちろん、覚えてるよ。もうすぐ結婚記念日だろう?」
「良かった。何も言わないから忘れてるんじゃないかって」
「忘れるわけないじゃないか。僕は記憶力には自信があるんだ。誕生日はもちろん、初めて出会った日や初デートの日もちゃんと覚えているよ」
奈美は同じ会社の同僚だったが、高嶺の花だった。優しくて、綺麗で、明るくて、男性社員たちの憧れだった。
そんな奈美が平凡な僕と付き合うなんて何かの間違いじゃないかと思った。だから、少しでも愛想をつかされないように僕はまめにサービスしたのだ。
家事は積極的に手伝うし、サプライズプレゼントをしたり、記念日を祝ったり……
そんな僕の努力が実ったのか、結婚二年目にはかわいい双子が産まれた。その翌年にも子供が産まれて、今も妻は妊娠している。我が家はほとんど僕が回していた。
子供はかわいいけど、記念日がどんどん増えていくなぁ。子供の誕生日、初めてハイハイした日、初めて立った日、それから……
目が回るような忙しさで毎日てんてこ舞いだ。そんなある時、妻が少し怖い顔をしてこちらを見てきた。
「ねえ、覚えてる?」
まずい。これは僕が何か忘れているサインだ。なんだ? 結婚記念日ではないし、誕生日でもないし、結婚式の日でもない。
「もちろん、覚えてるよ!」
僕は適当に返事をして必死に頭を回転させた。初めて旅行に行った日でもないし、いい感じになった日でもないし、両親に挨拶に行った日でもない。
子供の誕生日でもないし、七五三でもないし、初めて保育園に行った日でもない。家族写真を取った日でも、公園デビューした日でも、予防接種の日でもない。
……いけない。奈美の目がつり上がってきた。
子供がしゃべった日、上の子が漏らしちゃった日、妻の出産予定日、子供が絵を描いた日、僕がカレーをご馳走した日、実家の猫の誕生日、車検の日、金曜日はカレーの日……
ダメだ。明らかに違うものが混じってきた。なんでこんなにカレーが自己主張するんだ!
子供たちも盛大にぐずりだして、僕はすっかりパニックだ。ここは正直に謝るしかない。
「ほ、本当にごめん! なんだっけ……?」
奈美は目をつりあがらせて僕に買い物袋をつきつけた。
「今日はカレーだって何度も言ったのに、なんでお肉がないのよ!」
「あ……」
僕は黙ったまま、半額セールだったマグロの切り身を見つめるしかなかった。
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