10人が本棚に入れています
本棚に追加
/11ページ
しかし、ここにこられては非常に困る。
といって、断れば途端に不機嫌になり、理由を問い詰めてくるはずだ。仮に納得のいく言い訳をくりだせたとしても、“主人”である自分のほうから和睦のきっかけをつくってやったのに、という傲慢な頭が怒りを噴出させ、結局ドアは叩かれるに違いない。彼女は有言実行な女なのだ。
仕方なくOKしたあとの彼女の台詞が、焦燥を一気に加速させた。
〈今、駅前のスーパーにいるから、これから材料を仕入れてすぐいくわね。あ、メニューはカレ―〉
切られた電話を見つめながら思考をフル回転させる。―――もちろん焦燥は、カレ―と勝手に決められていたことに対してではない。
駅からうちまで女の足で一五分強。いや、彼女のことだ、タクシーを使うか。であれば、うまく拾えたとして、一〇分弱……。買い物にはどれぐらいかかる?……大型スーパーだ。商品の陳列場所にはじめての人間であれば結構迷うはず。……一五分と仮定し―――合わせて二〇分ちょっと。
それまでの間に……。
いうまでもなく、この病気のことは勝代は知らない。ばれれば冗談では済まないだろう。喧嘩どころか本当の別れになるはず。こんな性質の男を受け入れるような寛容な女では当然ない。
立ちあがり、色気の満ちる姿態に送った目で考える。
のこぎりで四肢を刻み、捨てにいく……?
すぐに頭をふった。
以前にもやったことがあるが、想像以上の音が出て中途で断念したのだった。しかも土曜日の午前、在宅している住人は多いはず。管理人に通報され、揉めている最中に勝代がきてしまったら……。
いや、そもそもゴミ袋に入るほどに切断している時間などない。
……仕方ない。
彼女を抱きあげ、そのまま押入れに向かう。隠せるところはここしかない。
まさか勝代も、こんなところを開けようとはしないだろう―――そんな頭があったにもかかわらず、いの一番にこの方法を採択しようとしなかったのは、はたしてスペースが残っていたか、という懸念があったからで……。
片腕で彼女を支え、襖を開ける。
すると、差し込んだ陽光で溶けた闇の中から、重なり合う幾多の瞳、唇が現れて―――。
やはり……と、落胆をした俺に、
『ねぇ、覚えてる?』
動くことのないそれらの一つから、甘い囁き。それが、意図せずあの店の名前を記憶の底から喚起させた。
最初のコメントを投稿しよう!