音のない囁き……あまく

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“引き寄せられた”(うち)には、吐きだし足りなかった愚痴の相手を求める気持ち、もしくは人恋しさも介在していたのでは……。  なにしろキャバクラでは口説きに全力をそそぎ、残りの愚痴をこぼすことなど忘れていたであろうし、しかも結局、真利萌にはふられ……だ。  そう……明るかったステンドグラスだったのに、決して広くはない店内はなぜか照明が落とされ、ムスクの香りに包まれていた。  年季の入った木のカウンター越しに見る棚には、酒類に混じり、西洋のものらしき古道具やアンティークドール、壁には理解不能な抽象画に、いろいろな形のベネチアンマスクもかかっており……。  どういったテーマで揃えているのか見当がつかなかったが、とにかく不思議な、というより妖しげな雰囲気を強く感じさせたその空間だった……。  不思議といえば―――。  なぜあの店の記憶は―――もちろん完璧にはほど遠いが―――その前に訪れたキャバクラよりも鮮明に再生されてくるのか……。  まさか異空間に足を踏み入れ、その空間作用により、あの時間の記憶だけ通常使われない脳の一隅に保存された……なんてことはあるまい。  自ずと回想は進んでいく―――。  妖しげな雰囲気という点は、カウンターの中の女にもあてはまっていた。  スタイルのよい躰に密着した上下漆黒のパンツスーツとインナーは、まるで喪服を想像させ、長い髪の間から覗くエキゾチックな細面は年齢不詳。ただ、美形であることには違いなかった。  また、シルバーで統一されたイヤリングとブレスレットが上品なアクセントにもなっており、見方を変えれば、DCブランドの店員、といってもおかしくはないと思ったことを覚えている。  ほかに客は……いなかった。だからこそ、女―――マスターだったと思う―――はずっと俺の前にいた。  決して口数は多くない彼女だった。だが、しっとりとした低音の心地よい対応が、ここでも愚痴の吐露を忘れさせたように思う。  しかし、どんなことを話したのかは……。  ただ、おぼろげな中にたしかに残っている会話はあった。  ―――繁華街ではないこんな寂しげな街中にぽつんとあって、しかもひとりで夜更けまでやっているのは危なくはないか……。  尋ねた俺に、彼女は整った顔を微細に緩め、そして、 「ひとりじゃありませんから」―――そう答えた。  ひとりじゃない……?
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