音のない囁き……あまく

9/11
10人が本棚に入れています
本棚に追加
/11ページ
 と、  うっ……。  今まで小康状態を保っていた頭部の痛みが再燃。  しばし側頭を押さえたままじっとする。  波をやりすごし、再度記憶をめぐらそうとした。……が、  脳内の映写幕には闇が待っていただけだった。  はじめからどうくり返そうと、彼女を見つけて以降の覚えがまったくない。  鮮明にしたぶん、記憶力はぷつりと力尽きた、ということか……。  なにはともあれ、あの店にいた彼女を連れてきたことには間違いがない。  しかしだ―――。  マスターは見て見ぬふりをしたのだろうか?  こっちは一見の客で、素性もわからない男。そんな人間に、大事な店のパートナーであろう彼女を連れていかれる―――それを許すだろうか……。  とても思えない。とめるはずだ。  であれば、力づくで……?  それも考えづらい。酩酊状態の躰と思考で理路整然と動けたはずはない。  いや……そんな状態だからこそ、理性など働かず、力任せで、ということも考えられないことはない、か。  とすればどうなる……。  ふと不安がよぎった。  当然店からはまたタクシーを使ったのだろう。見知らぬ街で、終電もすでに過ぎている時間だったはずなのだから。  どこでどう車をつかまえたのかはわからないが、運転手の目もあること、マスターが通報すれば、俺の居場所をたぐり寄せるのはたやすい。  再び頭を抱えたのは痛みからではなかった。  こんなことが明るみに出れば、俺の人生は……今までの苦労は……。  携帯の着信音が、瞬時鼓動をとめた。  もう……こんな早く……?  テーブル上の携帯画面を恐る恐る覗き込む。 『勝代さん』  との表示に、ほっと一息をついたと同時に、「こんなときに!」いらだちももよおす。  だがすかさず通話ボタンをスワイプしたのは、すぐとらないと不機嫌になるからだ。 「あたし。覚えてるぅ?」  珍しくふざけたような声。仲直りのための電話だと直感した。  それにしても、部屋にいって昼食をつくってやる、といってきたことには驚いた。  俺のアパートの間取りを知った彼女は、狭いところは嫌と、今まで一度も訪れたことはない。しかも食事をつくるなどという恋人らしい行為は、つき合い始めてから今まで一度たりともなかった。ゆえにこの行動は、さすがに今回の喧嘩の非は自分にあった―――という懺悔心が多少ならずとも芽生えた末からなのだろう。
/11ページ

最初のコメントを投稿しよう!