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隣町で所帯を持った一人息子が戻ってきた。まもなく小学校に上がろうかという、幼い孫娘の手を引いて。進学を機に家を出て、実に十年ぶりのことだった。
連れ合いに先立たれてのち、持て余し気味の一軒家に一人きり。趣味の庭いじりが没頭できるせいぜいの、張り合いない日々に倦んでいたから、しほ子はこれを、諸手を挙げて喜んだ。それが如何なる理由によるものであろうとも、再び共に暮らす家族ができたことは、これ以上ない幸福と思えた。
『今日からは、おばあちゃんのおうちが美波ちゃんのおうちよ』
腰を屈めて語りかけた相手は、元々引っ込み思案のきらいはあったものの、記憶の中ではおずおずと、はにかむように笑う子供だった。
それが今や、応えもろくに言葉にできず、視線をじっとしほ子の膝下あたりにさまよわせている。その面に浮かぶ濃い憔悴の影に、この幼子が心に負った傷の深さが偲ばれて、締め付けられるように胸が痛んだ。
美波の母は、死んだのだ。
交通事故だった。
保育園に美波を預け、そのまま帰らぬ人となったという。
大学で知り合った、仕事で留守がちな夫に代わって家事と育児を一手に引き受け、ここ数年は家計の助けにと進んでパートにも出る、献身的な妻。そうした印象は、しかし、彼女自身の死によってあっさりと打ち砕かれる。
美波の母は、その死の当日、パートになど出てはいなかった。とっておきのワンピースに、華やかな化粧をして、大学時代の同級生だという男の車に乗り込み――そして事故に遭ったのだ。
事実、二人の間に、不倫関係があったのかどうかは、もう誰にもわからない。運転していた男もまた同様に亡くなっていて、彼は息子の親友でもあった。
息子は、妻と友人に裏切られた不憫な男、という同情をもって迎えられたろう。だが、悪女のレッテルを貼られた女の血を引く孫娘は、謂れなき悪意に晒されなければならなかった。
幼い美波には、己を指してひそひそと囁かれる言葉も、狭い世界の中で無きもののように扱われることも、その意味するところなどほとんどわからなかったはず。それでもただただ、黒い感情は彼女を確かに取り巻き、どうしようもないほどにその心を食い潰していった。
だから息子は、これまで疎略にしてきた実家をやむなく頼ったのだ。だが、不肖の息子がようやくそれを決心した頃にはもう、美波は笑わない子供になっていた。
誰に似たのか、すっかり仕事人間の息子は、ここへは遅く寝に帰るだけ。否、敢えて家には寄り付かないようにしているのかもしれない。亡き妻に面差しのよく似た我が子の待つ家には。身の内にせめぎ合う愛憎にはまだ、決着をつけられていないのだろう。
「美波ちゃんはどのお花が好き?」
週に一度、しほ子は孫にそう訊ねる。
一つ屋根の下で暮らし始めた美波とは、自然、二人きりで過ごす時間が長くなった。人とのふれあいに怖じける風を見せる美波も、祖母に対しては徐々に心を開き始め、趣味の庭いじりは今や、二人共通の日課だ。
広い庭には、丹精込めて育てた花と緑が溢れている。その中から、小さな指が迷いながら選んだ一輪を恭しく手折ると、しほ子は、握ればすっぽりと拳の中に収まる温もりを引いて、集落の外れ、小山に掛かる造りの粗い石段を登るのだった。
下生えや蔓木の手入れなど勿論されていようはずもない斜面に、大きさも形もバラバラの石を――おそらくは素人が――組んだ程度の石段は、道なき道と称すべき代物だったが、通い慣れたしほ子にしてみれば、中でもぐらつく石のありかも、どこをどう踏み進めればするりと登れるのかも手に取るようで難儀はしない。とはいえ、幼い美波にとっては長く険しいものに違いないだろうに、祖母の手を絶対に離すものかとでもいうが如く、辛抱強く後をついてきて、泣き言一つこぼしはしなかった。
「おやしろ様にお花を届けようねぇ」
向かうのは、しほ子が生まれ育った小さな町を取り囲む小山の一つ、その頂。集落の全景がとりあえず見渡せはするものの、茂る木々が頭上を錯綜するゆえ見晴らしと言うには及ばないそこには、人が三、四人集まれば埋まってしまう程度の空地があって、一抱えはあろうかという立派な石と、岩石を彫り込んだ祠が鎮座している。しほ子が子供の時分からもう何十年と通い詰める、特別な場所だ。
寒椿の赤をそっと供えた石造りの祠はすっかり古び、由緒の裏書きと思しき跡は年月がすべてを丸めて、一体ここに何が祀られているのかもわからない。ただ、この外界と隔絶するかのごとき緑の場は、どれほど心乱れることがあった時でも、慰めを与えてくれる心地がした。
山菜取りの折に迷い込んだ幼い日から今日まで、十日と開けず花を手向け続けた。最初は無事に家へと帰りつくことができた礼に。それからは、一時の安らぎを求めて。素性も知れない神様を足繁く詣でるしほ子は、周囲から見ればさぞ酔狂だったことだろう。
だが、どんなに後ろ指を指されたって構わない。
だって、神様は、確かに叶えてくれたのだ。『もう一度家族と暮らしたい』という、しほ子の真摯な願いを――それがどれほど乱暴で多くの者を傷つける方法であったとしても。
冬晴れの日差しは、空を遮るよう絡み合う枝々に散らされて一層弱く、合掌した指先からじんと熱を失っていく。
隣に並び、こちらを懸命に真似る愛しい孫娘は、春に小学校に上がればまた、人の悪意の渦へと呑まれてしまうかもしれない。
だからしほ子は今日もまた、心からの祈りを込めて、強く強く手を合わせ、頭を垂れる。
(――お守りください)
どうかどうか、この子を。傷つけるすべてから。
己の命と引き換えでも、かまわないから。
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