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雲の影すら一つもなくまっさらな、青。
昨日までうんざりするほど激しい音を立てて幾日も降り続き、あたりをすっかり水溜まりにした雨など嘘のようだ。
辺見は、秋らしく高い高いそれを職員室の窓から眩しい心持ちで見上げて――そして、怪訝に眉を顰めた。
「あれは……美波さん?」
視界の端、一人の女子児童が、パシャリパシャリと泥水の花を広げ駆けて行く。校門目がけて、一直線に。
(担任は一体何をしているのかしら)
まだ、授業中だというのに。辺見は内心、同僚の怠慢に憤慨しながらも立ち上がり、まさに校外へと消え行かんとする小さな背を慌てて追いかける。協力や言伝てを頼もうにも折悪く、職員室に他の教員の姿はない。よもや、彼女を見失うわけにはいかなかった。
(わたしだけでも、気にかけてあげなくちゃ)
担任学級の子ではなかったが、そんな正義感の下、五年以上も見守ってきたその少女は、入学当時から、彼女の母親の死にまつわるまことしやかな噂――事の真偽をわざわざ確かめようとも思わないが――によって、周囲の大人たちから遠巻きにされ、あるいは一方的に憐憫されていた。
子供は異物に敏感だ。その意味で、大人たちから無辜の子供らしからぬ扱いを一身に受ける美波は、子供の狭い世界にあって明らかに孤立を深めていったし、何一つ有効な打開策を見いだせない自らを悔しくも感じていた。
早く連れ戻さなくては、と急いて追う背が迷う素振りもなく飛び込んだのは、山頂に向けて、かろうじて階段、と呼べる程度でしかない石積みが蛇行しながら続いている斜面。日頃、元気盛りの小学生を相手に仕事をしているぶん、体力に自信がないわけではなかったが、それでもこちらを辟易とさせる程度の途方も無さでその石段は続いていた。
こちらが逡巡する間にも、遥か上を行く子供は、重力など構いもしない軽やかさで遠ざかっていく。
「美波さん! 戻って!」
大きく名を呼びかけてみても、いっかな立ち止まる気配はない。となれば、教師であるところの辺見は、やはりこれを追いかけないわけにはいかなかった。
覚悟を決めると、木々の間をほとんど四肢でよじ登るよう、一心不乱に上へ、上へ。
あともう少しで頂上だろうか。目指す先に深緑の切れ間が唐突に現れて、一条、眩く光が差す。
上がる息にほっと安堵を滲ませたそのとき――突然、身震いするほどの動悸が、した。
そう思った次の瞬間には、違う、と理性が遅れて否定する。
これは、身内の鼓動などでは決してない。その正体は、この身が共振するほどの轟音、だ。
近くて遠いどこかから前触れもなく生じたそれは、現実にぐらりとめまいの心地を伴い、やがて突き上げるような揺れに姿を変える。
(すぐ学校に戻ったほうがいい)
本能が、逃げろ、危険だとけたたましく警鐘を鳴らす。
(こんなの尋常じゃない。でも……それなら、美波さんに追いつかなくちゃ)
恐怖を覚えるほどの揺れを地に半ばしがみついてやり過ごしながら、辺見はなんとか己を叱咤して、石積みを最上まで這い登る。
するとそこには、木々に守られるようなこぢんまりとした空間があって、少女が一人、ぽつん、と取り残された風情で立ち尽くしていた。
「――美波さん! ここは危ないから、帰ろう?」
まだ小刻みに足元が揺れている。それともこれは、この脚が痙攣してそう感じるのか。
ようやく追いついた。まだ幼い彼女もさぞかし心細かろうと伸ばした手は、身を引くよう、一つ歩を下げた美波には届かない。
「――帰るって、どこへ?」
「どこ、って……学校よ。まだ授業中だもの」
「ふぅん」
戸惑いながらも言い募る辺見を心底不思議そうに、目の前の子供は、でも、と小首を小さく傾げて見せた。
「学校なんてもうどこにもないよ」
「え……?」
天に向け伸びた枝葉がフレームのように切り取る景色、少女がすっと指差したその先には、人の営みが宿るミニチュアが広がっている。
山々にぐるりと囲まれた、小さな町。それは概ね見慣れた通りの風景だったが――あるはずの山が一つ、丸々欠けていた。小学校の裏山、だ。
つい先刻までありふれた景色の一角だった緑は、崩じた土石ともんどり打って山裾へと押し寄せ、断末魔のごとくもうもうと上がる土煙が真っ青な空を無遠慮に汚していく。
山裾にへばりつくよう連なっていた家々は、一体どうなってしまったのだろう。何より、このあたりで最も背の高いはずの校舎は。どれだけ目を凝らし瞬きを繰り返そうとも、塔屋すらその姿を見出すことは叶わない。
一変した景色に、思考がほどける。言の葉を継ぐことができない。こんなこと、あるわけがない。あってはならない!
「ここにいれば、もう大丈夫ですよ」
まるで、まもなくこうなることがわかっていたようなタイミングで一人、学校を背に駆け出した、美波。
「辺見先生。私のこと、気にかけてくれたんですね」
おどろおどろしく薄汚れた、不気味な祠を背に、笑う。
笑う。
高さがちぐはぐの二つ結びをさらりと揺らして。
「嬉しい」
目にした美波の笑顔は、こんなにもあどけなく、晴れ晴れとして、初めて見る満面の――彼女の級友も恩師もすべて、冷たい土の下に埋もれてしまったというのに。
(……ああ。わたしは間違えた)
この無垢なる異質を嗅ぎ分けた子供たちの本能たるや、紛れもなく正しかった。正しかったのだ。
目の前に立ち塞がるのは、少女の姿をした、得体の知れないバケモノだ。
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