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タケに手を引かれ、生まれて初めて学校を抜け出した日を境に、美波を取り巻く環境は一変した。
タケがどこか誇らしげに示した光景の、一瞬で日常が屠られていく様の儚さに、最初はただ、驚いて。
踏みしめる大地までも、引きずり降ろされてしまいそう。それとも、びりびりと肌を震わす山鳴りがそう錯覚させるだけなのか、わからないのが少し、怖かった。
美波にとって怨嗟の象徴でしかない校舎。あんなにも疎ましく呪わしいそれすらも、瞬きの間に泥の底へとすっかり呑み込まれていく。
――知らない煙の匂いを纏って帰るときはいたく上機嫌な母が、大嫌いだった。
はりぼての平穏を疑いもしなかった父は、結局、今も昔も美波に対する関心の薄いまま。
祖母が与えてくれたものだけが、ひたすらに温かだった。
美波にとって意味がある人間は、元からたったそれだけで、しほ子がいなくなってしまえばもう、この手には何もない。
美波がこれまでに受けた仕打ちの故を知らない者は、あり得べからざる難を逃れた子供を奇跡と賛じたが、これまでを片鱗でも知る者にしてみればそれは、紛うことなき祟りであり、天罰そのものだった。彼女を謂れなく排するのは悪手だと――それにどれほどの根拠も確証もないのだとしても――思い知ったのだ。あまりにも多くの命を代償にして。
タケと手を取り合って立ち尽くす美波の中で、最後に湧き上がり満ち満ちた感情はただ、歓喜、だった。
美波が見つけた神様は、美波だけを選んだ。纏わりつく密やかな雑音が一斉に消え去ったことよりも、それこそが何より嬉しかった。
「美波はあの日のこと、覚えているよね。絶対、忘れたりしないよね」
飽きもせず、同じ応えを繰り返しなぞるようせがむのは、こちらの成長に合わせた黒の詰襟にその身を包み、この古い古い祠に棲まう、神様。
タケの心は今、まっすぐ美波だけに向けられている。美波にはもうタケしかいないように、タケを神と仰ぐ者もまた、美波しかいないから。
(私たちは、二人ぼっちだもの)
だから、美波だけを見ていて。
美波にだけ微笑んで。
――そうでなくては、いけないの。
人間なんて、先に神様を見捨て、忘れたくせに。今さら誰にも分けてあげるものか。
美波の神様は怖がりで、忘れられることを酷く厭うから、『そうでしょう?』と訊ねる代わり、いつも隣にある指先を絡ませて、何度も、何度でも、望む応えを囁くのだ。
「ちゃんと、覚えているよ」
崩れるのを待つばかりの風体の祠の前には、美波が選んだ一枝きりの山桜。
神様に花を捧げる役目は永劫、自分だけでいい。
(でも、いつか……)
もしもタケが、美波以外の誰かを見つけてしまったならば――一瞥するは、あまりにも小さな朽ちかけの彼の座所。
そうだ。そのときには、神様を永久に隠してしまおう。そうすれば、この幸福で満ち足りた二人ぼっちを、誰にも引き裂かれはしないもの。
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