第一章 通信指令

4/11
17人が本棚に入れています
本棚に追加
/154ページ
 救急車はタクシーではない。「早くよこせ」とはなんだ。怒鳴る元気があるのなら、自分で病院に行ったらいいだろうに。ここに電話するのは間違っているぞ。  言葉に出してはいないが、新屋の背中はそう言っている。  皆川はレシーバーをかけ直した。骨張った頬を撫でると、指にざらりとひげの感触がある。安い電気カミソリはやっぱりダメか、と悔やむ。安物買いの銭失いだ。 「行かないのではありません。今、お近くには救急車がないのです。なので、遠くから向かうため、到着するまでには、少々時間がかかりますと言っているのです。決して行かないのではありません。ご理解ください」レシーバーをかけなおした新屋が、見えない相手に説明する。  そうそうと皆川は頷く。頷きながら指令台の画面を確認し、通報者の情報をメモした。  緊急性がないにもかかわらず一日に何度も通報してくるような者、こちらが何を言っても素直に聞くことなく文句を言い、からんでくる者などは、可能な限り電話番号と住所、氏名を控えている。リストもある。ただ、だからといって要請を無下に断るようなことは、通常はしない。 「ご理解でぎねえなあ、早ぐ来い。来るまで待っててやる」  笑いをかみ殺しているような気配が伝わってくる。  何を言われようとも、ない袖は触れないのだ。しかも、モニターに表示されている地図を確認すれば、要請場所から数十メートルの箇所に内科の医院がある。整形外科だってそれほど遠くない。  がんばれ、と皆川は新屋の背中を見つめる。受付指令の基本は、要請されたらポンプ隊あるいは救急隊を向かわせることなのだが、今は事情が異なる。  なるべく消防隊を向かわせないように通報者を誘導し説得しなくてはならないのだ。  新屋は、ここに配属される前は、指揮隊で伝令を務めていた。現場の指揮本部長である大隊長からの指示命令を災害現場の各隊へ伝達するのが役割だ。  災害現場で各隊員に情報を流す役目と、通報電話を取り、かけてきた相手を説得することは、似て非なる業務内容であり、慣れるまでは大変だろうと皆川は同情する。色白で童顔な新屋の顔がさらに白くなっているのではと心配する。  皆川は、新屋の気持ちが手に取るように分かる。なぜなら、数年前にここにやって来た時の自分もそうだったから。ここでは、自分の感情を押し殺す術を身につけなくてはならないのだ。
/154ページ

最初のコメントを投稿しよう!