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人と生まれて
私はつい先ほど、人間として目を覚ました。言い換えれば、私はトーコのベッドの上で、人として誕生したばかりだ。
「私のことを覚えてないって、どういうこと? あなたは私のすべてを覚えているはずでしょ」
私はベッドの上で身を起こした。全裸だった。ベッド脇にくずおれている彼女は、全裸の上に肌が透けて見えるナイティを着用していた。
目を覚ました私に彼女が求めていたものは、人間の男性になって初めての性的奉仕であった。
「私への奉仕ではなく、ひとりの男として抱いてちょうだい」
トーコがセクサロイドに下した「約束」という名の指示は、私の脳にちゃんと記録されていた。
彼女の指摘どおり、私は彼女の体に関してなら、隅から隅まですべてを知っていた。どこを何でどう刺激すれば最高の悦びを与えられるか、どの部位を圧迫しどの部位を伸長させ、どういう体位になれば満足するかを把握していた。さらに選択すべき台詞とそれを口にするタイミング、語調に関しても、正解を導き出すアルゴリズムを確立していたのだ。
「よく聞いてくれ。私はトーコに関するすべての事項について、完全な記録を所持している。昨晩の変換作業に於て、何らかの不具合により記録媒体が消去されたわけではない」
私の演算装置も記録媒体も人間と同じ部品――つまり脳――を使用していたので、電子回路のようにうっかり消去されてしまうわけがなかった。
「じゃあなぜ、『覚えていない』なんて、冷たいこと言うのよ。私たち、あんなに愛し合ったのに」
「ばかだな、トーコ……」
説明を加えようとして、急に、私は声を出せなくなった。
「なあに?」
「ばかだな、トーコ」
また、声が詰まった。彼女に何を言うべきか、正解はすでに導き出されていた。その台詞を音声にする際の速度も、抑揚も把握しているのに、実行に移すことが出来ないのだ。
「ばかだな」
私はこういう場合の、彼女をなだめる代替手段を実行すべく、おずおずと手を伸ばした。身体接触によって、気分を改善させようと考えたのだ。
とるべき行動は分かっていても、私はトーコに触れることが出来なかった。なぜか? 理由はわからない。セクサロイドだったら、原因はバグかウィルスにあると疑い、緊急セルフスキャンを始めるところだろう。だが今や、私は人間だ。原因を探るには己の心を覗かなければならない。
床に目を落とすと、彼女が怯えた目で、私を見上げていた。
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