18人が本棚に入れています
本棚に追加
私はトーコに、「怯える必要はない」と伝え、音声による説得を試みた。
「記録と記憶は別物じゃないか。ロボットだった私はもちろん、君に関するすべてを記録している」
「覚えていないって、言ったじゃない」
彼女の語調は、論理的思考を放棄して、あきらめようとする際のパターンに近付いていた。私は幾分あわてて、説明を急いだ。
「脳内の記録は、単なるデータだ。カレンダーアプリに残した備忘録と同じで、いつでも参照して役に立たせることができる。だから『覚えている』必要はない」
私は深く息を吸い込んだ。
「一方、記憶というのは体験することによって作り上げられるものではないだろうか。私はロボットでいた頃に記録した、トーコに関する情報を大量に保持しているけれど、それは人としての記憶とは言えないように思う。ついさっき生まれたばかりの私には、人生経験がまったくない。つまり私はまだ、なにも覚えていないのだ」
彼女の発した質問にも、私はちゃんと、「なにも覚えていない」と回答している。
「だからトーコが不安を感じる必要はない。むしろ人としての経験も記憶もない私こそ、これからどうして生きていけばよいか不安だ」
「あなたは私と、ずっと一緒に暮らすの」
いつもなら声高の命令口調で話すはずの、トーコの声は低く、かすれていた。
「人間になっても今までと同じ。私がお金を稼いで、住む場所も、食べるものも、お洋服も、なにもかも用意するから。あなたは日用品の買い物と家の掃除、食事の準備だけをしてくれればいい。そうして夜になったら二人で愛し合うのよ」
私は返事をしなかった。トーコの台詞は命令ではなく、提案ですらなく、ただの願望であったからだ。おそらく彼女自身、ミスを犯したことに気付き始めていたのかもしれない。
最初のコメントを投稿しよう!