鈴蘭記念日

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 食卓に載った華奢なガラスの一輪挿しで、鈴蘭が頭を垂れていた。  繊細な茎に、スッと伸びた優雅な葉、そして何より鈴のような形の白くて可愛らしい花。  バラや牡丹のような華やかさはなくとも、控えめながらも愛らしいその姿と上品で可憐な香りで、私は鈴蘭が花の中で一番好きだった。 「そういえば珍しいな、お前が花なんて飾るの」  夕食も終盤に差し掛かった頃、サラダボウルの底に残った葉物をフォークで掬いながら、一輪挿しを目線でさして夫が言う。 「ああ、これ? 花屋さんで売っていて、綺麗だったから買ってみたの」 「へえ、そうか」  さしたる興味もなさそうに答えて、夫は掬いあげたサラダを咀嚼した。  どれもほとんど食べ終わっている状態だけれど、テーブルに並んでいた夕飯は、自慢のお手製ビーフシチューとフレッシュフルーツのサングリアに、付け合わせのシーザーサラダ。小皿にはスパニッシュオムレツ、蒸し鶏と根菜のマリネ。主食は夫の好みに合わせた白ご飯。  新婚当初に洋食のおかずでも主食は米でないと食べた気がしないと言われて以来、パンではなく白米を出すようにしている。  本当は、私はビーフシチューには軽くトーストした歯ごたえの良いバゲットを合わせたいけど、二人で食べるのだから私の好みばかり主張するわけにもいかない。  新鮮な葉物と香ばしく焼いた塊のベーコンに、トロリとした温泉卵と濃厚なドレッシングが絡まったシーザーサラダも、夫はいまいち箸が――正確に言うとフォークが――進まないようだった。  私より体重の軽い少食の夫にとって、このサラダは、些かビーフシチューの付け合わせとしては重かったのかもしれない。  綺麗に8等分にしたスパニッシュオムレツも、ケチャップの酸味があるとはいえ、スライスしたソーセージや千切りのじゃが芋と玉ねぎが入っていて、バターの香りも相まって副菜にしてはヘビーだったかしら。  それでも、今日はせっかくだから、私の得意料理を作って食べてもらいたかったのだ。  白ご飯は譲るにしても、それ以外は譲れなかった。 「お花屋さんの前を通ったときに花言葉が書いてあって、それが素敵でさ。それもあって買ったんだよね」  レタスにルッコラ、サニーレタスに刻んだ君影草の葉が入ったシーザーサラダをあまり進まないながらも食べていた夫の満腹そうな姿を見ていると、自然と笑みがこぼれてくる。  ああ、私はこの人の食べる姿が好きだ。  姿勢が良くて、食べ方が綺麗で、少食なのに、出た料理は時間を掛けても残さず食べてくれる。そういうところが好き。  今日だって、この品数とメニューの重さのせいで、1時間以上かけて食事をしてくれている。  休日とはいえ、食事にこんなに時間をかけるのは最近なかなかないことで、『仕事で帰りが遅くなって申し訳ない』と言うのが口癖になりつつある夫と向き合って、こんなにゆっくり食事をしたのは久しぶりだった。 「花言葉?」  デキャンタに少なくなったサングリアを注いでから、私の方を見て夫は聞き返した。  甘党の夫は、私の作るサングリアを好んで飲んだ。  私はお酒に強くないのでまだ1杯しか飲んでいないけれど、夫はこれで4杯目だ。  赤ワインに付け込んだのはオレンジに林檎、ブルーベリー、ラズベリー、そして、何種類かのスパイスにハーブ。果物の甘味と酸味、スパイスやハーブの香りが移った赤ワインは、香り豊かで口当たりも軽くなって飲みやすい。 「ええ。鈴蘭の花言葉は『幸福の再来』って言うんですって。素敵でしょう?」  にっこり笑って言えば、夫のフォークが止まる。 「幸福の、再来」  鸚鵡返しに呟いた夫の、一瞬だけ訝し気に強張った表情に、ああ、やっぱり、と確信した。  ――夫は、部下と不倫をしている。    薄々気づいたのは三ヶ月ほど前だけれど、たぶん、もっと前から関係を持っていただろう。  おそらく、彼が本社に栄転して昇進した際に、彼の希望で私が専業主婦になった、あの頃から。  もしかして、と思ったきっかけは、彼のスーツについた香水の匂いだった。  清楚で可憐で、それでいて主張し過ぎず上品なミュゲの香りは、どう考えても女ものの香水。  その香りをスーツに付けて帰ってくる日は決まって帰りが遅く、私と一緒に居る時より機嫌がよかった。  こちらは彼の為に辞めたくなかった仕事を辞めて、ロクな知り合いもいない彼の転勤先で、一人で家事に勤しむ生活だというのに。  それでも、その予感を信じたくなかった。  大好きだった仕事と天秤にかけて夫を選ぶくらいには、夫を愛しているから。  見ないように、気づかないようにと思えば思う程、不自然に増える電話の数が、LIMEのやり取りの多さが、食事会や飲み会の頻度が、気になってくる。  こんな上品なミュゲの香りを纏う本社勤務の優秀な女性は、家事をするだけの私に比べて、どれほど魅力的なことだろう、なんて、そんなことを思うと、目の前が真っ暗になるようだった。  それでも、私が気づいたことを悟られないようにした。  だって、問い詰めて『じゃあ別れよう』なんて言われたら、きっと私はやっていけない。  香水の香りも、ワイシャツについたファンデーションも、背中に残ったひっかき傷も、私は気づかなかったことにした。  だから夫は、私が微塵も気づいていないと思っている。それで良かった。そうでなくては困った。  どんどん離れていく夫の心に暗い気持ちになっていた時、花屋の店先で、花言葉を添えられて売られている鈴蘭を見つけたのだ。  その花を見て、パッと視野が開けたようだった。  だから、今日くらいは、この記念日は、花を飾って、美味しい料理で、彼と私だけの特別な日にしたかった。  「素敵じゃない? 去った幸福が戻ってくるなんて」  鸚鵡返しにした夫に、微笑んで答える。 「ああ、まあ、そうだな……幸福が去ってしまった後に、その幸福が戻ってくるのなら、それはきっと嬉しいことだと思うが。でもまあ、幸福が去らないでいてくれることを、俺は願いたいかな」  答え辛そうに言葉を選ぶ夫は、この料理の数と食卓の花、そして私の話題の振り方によって、食事もほぼ終わろうという今になって、ようやく何かの記念日だったのではないかと、他の女にかまけていたせいでそれを忘れているのではないかと――思いを巡らせているようだ。  そんな風に話しながら、夫がビーフシチューに匙を入れる。  そのまま、曇りひとつなく磨いた匙で簡単に崩れるほど柔らかく煮込まれた牛肉を掬って、口へ運んだ。  市販のルーは使わずに、野菜とお肉と赤ワインと香辛料を、思いを込めてじっくりコトコト煮込んだから、きっと口内でも柔らかく崩れていることだろう。  それを思い浮かべて、私もシチューを口に運んだ。  咀嚼した牛肉の脂の旨みに混じる赤ワインと隠し味のほろ苦さ。あまりの上出来さに、私の笑みも恍惚に溶ける。 「そういえば、なんか、今日のシチュー、いつもと少し風味が違うな」  隠し味に気づいたらしい夫は、話を変えるようにして言った。 「気付いた? 隠し味を入れてみたの。当ててみて?」  シーザーサラダのベーコンを食べてから、私は言った。  夫が味の変化に気付いてくれたことが嬉しい。 「ええ? 俺が隠し味なんて分かるわけないだろう。なんか、今日はいつもより酔ってんのか動悸がするような気もするし、さっきから時々、眩暈もする、し……っ」  言いかけて、夫は胸を押さえて、スプーンを取り落とす。  片手を机につき、油汗を浮かべて喘ぐように口を動かす夫は、言葉が続かない様子だ。  そんな夫の様子に、ああ、ようやく、と笑みがこぼれた。 「あ、な、んで……っ」  席に着いたまま微笑んでいる私に、信じられない面持ちで夫は尋ねた。  ついに手で体を支えられなくなって夫はテーブルに倒れ込み、食器が派手な音を立てていくつも床に落ちる。  その衝撃でも倒れることだけは免れた花瓶の中で、食卓の花は大きく揺れた。 「鈴蘭は」  椅子から床に崩れ落ちる夫の元へ、私は席を立ってゆっくり歩く。 「草全体――特に、花や根に毒があるって、知ってた?」  床に這いつくばる夫の隣に、私は膝をついた。 「コンバラトキシン、コンバラマリン、コンバロシド」  訳の分からない様子で私を見る夫には、きっと呪文のように聞こえているだろう。 「強心剤として使われることもある成分だけど、これらを含む鈴蘭は、青酸カリの約15倍もの毒性があるの。つけておいた水を誤って飲んだだけで死亡した例もあるのよ」  植物園で学芸員として働いていた頃の知識で、私は夫に説明する。  笑みを浮かべたまま答える私の顔を見上げた夫の視線の先には、花瓶で揺れる可憐な鈴蘭があることだろう。 「ま、さか……」  私は夫にゆっくり手を伸ばし、その頬を両手で包む。 「ええ。ビーフシチューにも、サングリアにも、シーザーサラダにも、隠し味を――あなたがスーツに纏わせて来るくらい好きな香りの鈴蘭(ミュゲ)を、たっぷり入れたわ」  水仕事で荒れた両手で、そっと夫の顔を上げさせた。  驚愕と恐怖で見開かれる夫の眼を見て、感動が爆ぜる。  ああ、これでやっと、私の幸福が戻って来る! 「だって、あなたの心はもう私にはなかったんだもの」  恍惚とした笑みはそのままに、目に涙が浮かんでくる。  ようやく夫がむき出しの心のままに私を見てくれた。  私の涙を見る夫の眼には、苦しさの中に少しだけ罪悪感が見えるようだ。  毒を盛られた相手である私にもまだ憐憫を持てる、夫の悪くなり切れないところが、心から愛しい。  だから、このまま私の元に帰ってこなくなる日が来る前に。  幸福が完全に去ってしまう前に。 「あの世でまた、幸せになりましょう?」  今日は、私達二人が生まれ変わるための特別な記念日。  息絶えゆく夫にそっと口づければ、幸福の再来の味がした。
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