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森でなくした
本に眠る私の行方を辿るには、ページをめくり文字を読み取るしかないはずだけど、読めば読むほど文字を失い、ふりかえるとインクの闇に溶かされた名前や過去におののき、たちまち本はなくなった。それでも先を読み進めるほかない私に、追うことを許されたのは森の中。しかしその森こそが、なくした本を編むのに手を貸したわけなのだった。
暗闇を宿したのも森だ。
その暗闇は私を紐解くために暗闇を紐解き、解けた闇で私を綴る。めくるめく私は紐解かれた私とは知らず文字を追いかけ、私をなくした。
暗闇を宿して迷子を孵した森の良心は、かわりに沢山の鳥を放つ。鳥たちは挙って暗闇を啄み、言葉を選り分ける。せめて名前を選んだお前は逃がすまいと手を伸ばせば、ばらけるページごと一散に羽搏いて行ってしまう。
私を読むためにこれから探す本のページも、読み終えたはずのなくした本のページも、同じ一冊の本にきまってる。私は一人っきりしかいないのだもの。だから深い森の中だろうと、探すのはわけない。その本に題名がなくってもだ。
それにその本は、森でなくして初めて装丁されるから。
星雪姫と
森でなくした本
を探す娘
早起きのミミズクが、頭上のどこかでホーホー鳴き始めた。奥深い森の木々に囲まれて、辺りは陰ばかりだけど、まだ夜には間があるはずだ。
焦ることはないんだ。そういい聞かせながら、不安な気持ちに揺れるのを後に置いてくようにして、私は根っこにうねり返った足許を踏み越し、一歩一歩進んでいた。
私の置いてった不安を、後ろを歩く彼女は抱え込んだらしい。
「ああ、全体この森に終わりはあるのかしら。わたしもう足が棒のようだわ」
名を星雪姫といった。彼女はさっき、けものの皮を着込んだ猟師に追いかけられ、襲われそうになっていたところへ私が通りかかり救ったのだ。
「こっちさ来お、そっちさ行かせねえだ、オラと一緒に来おっ!」
物凄い剣幕で、猟師は強引に星雪姫の腕を引っ張り連れ去ろうとしていた。
女子の悲鳴を聞きつけた私は木の間から走り出ると、息もくれずに言った。「おやめなさいな!嫌がっているじゃないの」
突然現れ出た私に、星雪姫も猟師も目を見開いて、つかみ合いの動きを止めた。そして二人は私に向かってほぼ同時にまくしたて、星雪姫のヒステリックな叫びが猟師の声を制し私の耳をとらえた。
「助けて下さい!この人がわたしを連れ去ろうとするんです。最近よく出没する人さらいに違いありません!この人は無辜の獣だけに飽き足らず、人の子のわたしでさえも殺して皮を剥いでは縒って弓弦にし、肉をきっては猟犬に投げ与え、髪は束ねて箒にし、骨は粉挽いて煎じて飲んでしまおうというのです!」
「何を言うだ!」猟師は再び星雪姫をつかむ腕に力をこめた。「そったら怖ろしいことオラがするわけねえがっ!」オラァおめえのおっかさんに頼まれて連れ戻しに来ただけだんべ。こんな森ン中うろついてサ、それこそ無事に帰れると思うべかっ、さあ、来っ!」
「助けて下さい!わたしにおっ母、いえ母などおりませぬ。わたしは森の向こうの川を渡って山を越えた次の山の向こうに立つお城に住む姫なのです!星雪姫と申します。きっとこの鬼畜はわたしを殺すのでなければ人質として隣国に金貨百枚で売り払うつもりです。そうにきまっています。そうしたら間違いなくわたしの国と戦になって、民百姓は戦乱の渦に巻き込まれるでしょう!」
それを聞いて、私の身内に燻っていた正義心の無聊が、俄かにメラメラと燃え始めた。「そんなこと、この私がさせませぬ!星雪姫さま、私がいまこの剣でそいつを一刀両断、打ち払ってやりましょう。さあ、都にその名を轟かした剣士、その名も笛吹冥王様が相手だっ!」
「なにを言ってるべか!こん娘はナナボシんとこのユキんこ、ちゅうだ。新しいおっかぁと折り合い悪くて家出したんだべ。ほら、帰っと、暗くなったらどうすんだ」
「その手を放せ、人非人!当代随一と謳われた、この私が成敗してくれる、えいや!」高らかに言って突進し剣を振りかざすと、猟師は怖れおののき、腰を抜かして尻もちをついた。さらに首を刎ねるつもりで、切っ尖を水平に保つと、猟師は冷や水を浴びたような叫び声をあげて後ずさり、ひっくり返って弓矢をその場に放っぽり出すと、そのまま飛ぶように逃げ去ってしまった。
「はあ、助かりました。一体なんとお礼を申したらよいのでしょう」星雪姫は両手を胸のところで合わせて言った。
「いいえ、礼になど及びません。それより大丈夫ですか?お怪我は?」
「おかげ様で、無事にすみました」
「よかった。ところで、どうして姫様ともあろうお方がこんな森の中に一人でいるんです?危ないでしょう」
「それはだから、あのけもの殺しに追われて」
「ああ、そっか」てっきり私は星雪姫が自らの意思で森に入り、それからあの猟師に襲われたのだと思い込んでいた。「でも、なんで姫様ともあろうお方が、お一人で出歩いたりなどなさったのです?」
「それはだから、お城で始終、供の者に付きまとわれてばかりでは息がつまるのです。だからこっそり城を抜けて、普段見慣れぬ下々の者を観察したり、見知らぬ町や村を散策しているうちに、だってわたしにとって、お城の外の世界はあまりにも新鮮で、見るもの全てが珍しく映るものですから、つい気をとられ、山を越え谷を渡り、野原でのんきに花など摘んでいましたら、あのけもの殺しが現れて!――」星雪姫は恐怖の記憶に身をすくめたが、すぐに忘れたように向き直り「そういえば、あなたこそ何故こんな森の中を一人で歩いているのですか」
「私は・・・」星雪姫に問われて言葉に窮した。わからなかった。いまのいままでそんなこと考えたことさえなかった。けど、ここに来てようやく自分自身を顧みることができた。すると何かを探していたことを憶い出した。次にこの森で何かをなくしたことを憶い出した。すぐに閃く。「そうだ、本だ。私、本を探してたんだった。この森のどこかで落としちゃったんだ」
「あら、そうなの?それは困ったわねえ。探すの、わたしも手伝ってあげましょうか」
「本当?ありがとう、助かります」私は星雪姫の優しさに心が温まった。日が翳り闇が濃くなるにつれ、寒さも増してきていた。
「でも、もう暗くて足許もよく見えないわよ?笛吹さん」星雪姫が小首をかしげた。
「誰!?私のこと?笛吹さんって」
「あら、さっきそう仰らなかった?都で一番の剣士、笛吹なんとかって」
確かにそんなことを口走った記憶はあったけれど、それはあの場のはったりだった。でも誰の名前だろう、笛吹って。とんと記憶にない。ひょっとしたら、なくした本の中に出てくるのかも知れない。きっとそうだ。
「でもそれ、私の名前じゃない。本の中の登場人物の名前だよ。それにきっと男子の名前でしょ。私、女の子だから」
「そうなの!?わたしてっきり、どこぞの名のある騎士様かとばかり思ってたわ。そんな恰好してるのだもの」
私の恰好?
星雪姫に言われてみて、私は自分の姿を眺めてみた。私が身に纏っていたのは、時代錯誤も甚だしい、騎士などとは似ても似つかぬ滑稽な軍人衣装だった。しかもさっきから、胸の中で痛くあたる棒きれみたいなのをどうにかしようと取り出してみると、それはフルートだった!やっぱり私はさっき咄嗟に口走った有名な剣士なのだろうか?バカな。こんな間の抜けた格好の剣士などいるものか。でもこの姿恰好を見て、どこぞの名のある騎士だなんて、星雪姫もよく言ったものだ。それともからかって言ってるのかな。
「それなら、本当のお名前は?なんて仰るの?」星雪姫が訊いた。
わからなかった。なんてことだろう、私は自分の名前さえもなくしてしまったようだ。私は一体何者なんだ?おかしいのは自分のことも知らないくせに、衣装の良し悪しはわかったことだ。
「それもなくしちゃった。本と一緒に。きっと本の中に書いてある」私は応えた。
「まあ、そんなことってあるのね。私も気をつけよう。なら尚更探し出さないといけないじゃない。でもどうする?いまから探す?」
「もう暗くなってきたね。なんか薄気味悪いし、今日は帰ろ」と言いかけて、私の帰るところもわからないのに思い至った。
「ウチのお城にいらっしゃいよ。森を抜けたらすぐのところよ」星雪姫が私の手をとって言った。「命の恩人ですもの。城をあげて盛大におもてなし致しますわ」
彼女のくっきりした二重瞼の下の大きな瞳が、こんな森の奥深くでさえ星を宿してキラキラ光ると、さっきお城は川を渡って山を越えた先にあると言ってたような気がする訝しさは、煙のように立ち消えてしまった。
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