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「ねぇ、覚えてる?」
目が覚めた俺に、そうやって問いかけてきたのは、昨日、飲み屋で初めて会い、一緒に飲んだ女だ。ベットに腰をかけこちらを見下ろしている。どうやら俺は知らぬ間に酔いつぶれてしまったようだ。
女は、背中まである長い髪に、アーモンドような大きな目をしていた。緑のワンピースに包まれたその体は病的にやせており、今にも折れそうだった。うす暗がりで見たときは独特の雰囲気があってきれいな女だと思ったけれど、こうして白日のもとで見ると、どちらかと言えばうす気味悪い部類だった。
「……あーいや、途中からはまったく覚えていないな」
昨日のことだと思い、俺はそう答える。今、自分がいる部屋にも見覚えがなかった。この状態で積極的になにかできたとは思えないので、ここまで運んで寝かせてもらっただけのだろう。
そこまで考えたところで俺は異変に気がついた。ベットにしばりつけられているのだ。
「昨日のことじゃないわよ。わたしのことよ。実は私、ずいぶん前にあなたと会ったことがあるの」
「――え? いや、ごめん。全然覚えていない。……というか、なんで俺しばられるの? なんかそういうプレイとか?」
いまだに酒が抜けきっていないのか、まどろんだ頭でにやけながら適当な言葉をつむぐ。それにしても今は何時なんだろうか。カーテンの隙間から光が差しこんでいるから夜が明けているのは間違いない。まあ今日は休みだったから何時でもかまわないか。
「ううん。逃げられないようにと思って」
その言葉に驚いて女を見つめた。食べやすいようにと思ってステーキ切り分けておいた、というくらい自然なテンションで女はそう言った。
「いや、そんな逃げるって……。生でヤっちゃったとかそういうわけじゃないんだろ? ――え、違うよね?」俺は自分の行動に自信がなくなり、そう聞いた。
「そうね、昨日のあなたはまったくの前後不覚って感じだったわ」
「そうか……それはよかった。よかったのかな。まぁいいや。――じゃあなんで俺しばられてるの? あとここどこ?」
女はすこし笑ったようだった。そして言葉を続ける。
「ここはわたしの部屋よ。それで、まずはちょっとわたしに会ったときのことを思い出してほしいの。まだ3年くらい前よ。ヒントは今日の恰好と、雰囲気かな。でもずいぶん見た目が変わっちゃったからわからないかも……」
こんな女に会ったことがあるだろうか。見た目が変わったというからには、もっと太っていたとか……整形したとかだろうか。これ以上やせていたということはないだろう。3年とはいえ、女は化粧がかわればまったく違って見えることはザラにある。
「うーん、もしかしてオオクボの飲み屋で隣になった子? あ、新宿のクラブで声かけた子だっけ?」
3年前というキーワードから思い当たる女をあげてみるが、正直どれも違う気がする。やはり正解ではないようで、女はゆっくりと首をふる。そして、そのあと女が言ったことは驚くべきことだった。
「やっぱりわからないかな……。わたしね、3年前のあの日、あなたの家の前にいた『カマキリ』よ。そして、――あなたに散々いじめられた上に、踏みつぶされて殺されたの」
「――冗談だろ? カマキリだったけど、生まれ変わったって? お前まだ3歳なのかよ?」俺は笑ってそう聞きかえした。
「年は25よ。だから生まれ変わりというよりも、憑依のようなものかもしれないわね。3年前のあの日、カマキリだったときの記憶が突然わたしにふってきたの。『あ、わたしカマキリだったんだ』って。あの日、――あなたに踏みつぶされたんだって」
男はだんだん馬鹿らしくなってきた。いくらなんでもどうかしている。そもそもカマキリをいじめた覚えもない。といっても見かけた昆虫をいじめて殺すことなど何の気なしによくやっていることで、単に覚えがないという可能性は高い。これまでに食べたパンの枚数を覚えていないのと同じだ。
そして冗談なのかどうか知らないが、この女がちょっとヤバいのも確かだろう。適当に話をあわせて、はやくここから帰ろう。
「あーわかったわかった。あのときのカマキリねー。それは、……その節は、大変申し訳ないことをした。すまんかった。今度、お詫びになにかお送りします。なんなりと好きなものでも言ってくれれば……」そこまで言った俺の言葉は、彼女の言葉にさえぎられた。
「いいえ、いいの。そういうのは。昔の話だし……」そこまで言って女は一度言葉を切る。そして改めて俺の顔をのぞきこむようにして言った。
「それに……わたし、あなたのことを好きになっちゃったから」
この流れはヤバい。俺はこれまでの経験からそう感じていた。たいていの場合、嫌われるよりも好かれる方が後腐れが良くない。
「えーあ、そうなんだ。それはありがとう。気持ちは嬉しいよ。でもほら、俺、今彼女いるからさー。その気持ちには答えられないかな、ごめんねー」
実際のところ今、彼女と言える存在などいなかったけれど、好き好んで地雷女につかまる理由などはない。なるべく刺激しないように、下手に出ながらも受け入れることはしない。
「いいのいいの。そういう気づかいとかいらないから。大丈夫よ。なんにも気にしなくて。だって、――あなたとわたしはひとつになるんだから」
「あーなに? もしかしてセックスしたいってこと? まあ別に俺の彼女そういうのは、そんなにうるさくないからまあいいんだけどさ、――その、またにしてもらってもいいかな。ちょっと今日は用事があるんだよね。そろそろ出ないといけなくてさ……」
「ううん。それはダメ。もうあなたはここから出さないから」
女は微笑みながらいった。そして座ったまま体制をくずし、俺の上にのしかかった。その枯れ枝のような右手をのばし、俺の左のほほをさわった。その指は乾ききってカサカサだった。
俺は自分がそれまで見ないふりをしていたことに気がついた。この女が怖いという自分自身の感情に。だが今、ほほをさわられたことにより、その感情は表面化してしまった。この女は、ヤバい。ここにいたら危険だ。
「ねぇ……あなた知ってる? カマキリの交尾について」
「……知らない」
これもウソだ。俺は本当は前にテレビかなにかで聞いたことがあった。カマキリの交尾について。だが、その事実に目を向けたくない気持ちから、反射的に否定の言葉を発していた。交尾したカマキリのオスは、その後、メスによって食べれられるのだ。
「そうなの。良かった。じゃあこれから試してみましょうか」
「……いやだ」乾いた口からは、かろうじて拒絶の言葉が口をついた。
「あら、好きでしょ? セックス? 別に人間と一緒よ。途中までは」
「いやだ!」
「大丈夫。どのみち二度目はないから、後悔もできないし。ちょっと時間かかるかもしれないけれど、あなたのこと好きだから、大切にいただくからね――」
「許してくれ……頼む。……いやだ、いやだ! いやだーーーーーー!!!」
どれだけ叫んだところで、ベットにしばりつけられた俺に選択の余地などなかった。暴れる俺など気にもとめず、彼女は俺の額に口づけをする。そして彼女はゆっくりとワンピースを脱ぐ。その体は緑色だった。
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