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誓いのキャンディ(2)
「おとといこの店の前を通ったとき、ちょっと気になってさ。入ってみたいと思ったんだ」
案内された席に着き、忍が言った。
「いい感じだろ?」
芽衣はゆっくりと視線を動かす。ナチュラル系のインテリアで統一されたカフェは、落ち着いた雰囲気。店内のあちこちには動物のモチーフがちらばっている。テーブルを占めるのは、ほとんどが女性客だった。
「芽衣、こういう感じの店好きかなとも思ったし」
「うん。可愛いカフェだね」
うなずきながら、芽衣はマフラーをとき、通学鞄とともに足元のバスケットへ入れた。
再会から一夜明けた放課後。
校門の前で、忍は芽衣が出て来るのを待っていた。
昨日は、互いの近況を短く伝えただけで別れた。別れ際「また今度ゆっくり話そう」と約束はしたが、まさか昨日の今日で忍のほうから会いに来るとは思わず、芽衣は驚いた。
そうして忍に誘われるまま、カフェに来たのだった。
「食いたいもん、好きなだけ注文しろよ」
メニューを開いて、芽衣のほうへ寄越しながら、忍は言った。
芽衣はメニューに書かれた金額を見て、ぎょっとした。忍のほうへ身を乗り出し、
「忍兄ちゃん、わたしドリンクだけにしておくよ」
こそりと言う。
「なんで? 腹減ってないのか?」
忍は不思議そうに首を傾げた。
「芽衣なら、いくら食っても満腹になるなんてことないだろう」
いつも目の前で焼うどんをがっついていたため、忍は芽衣が大食いなことを知っている。
「ううん、そういうんじゃなくて、なんていうか……バイト代出るの来週だから、今日は……」
ああ、そんなことか、と忍は苦笑した。
「高校生に払わせるわけないだろう。ここは俺のおごりだよ。もちろん遠慮なんかしなくていいぞ。いつもの勢いで、じゃんじゃん食え」
「うん……」
芽衣は戸惑いながら、メニューをめくった。
(なんだか忍兄ちゃん、知らない人みたい……)
そっと視線を上げ、向かいの席でメニューを開く忍を盗み見た。
記憶の中の忍は、当時まだ高校生だったこともあり、華奢で子供っぽい顔つきをしていた。
しかし今目の前にいるのは、肩幅が広く、首や腕の筋張った、大人の男性である。
確かに昔の面影を残してはいるが、芽衣はなんだか、忍によく似た別人と向かい合っている気がして、落ち着かなかった。
料理はどれもとてもおいしかった。
芽衣は忍に促されるまま、スープにサラダ、煮込み料理に肉料理、グラタン、パスタ、ピザ、デザートと平らげていった。
食後のコーヒーを注文し終えると、テーブルの上で忍のスマホが振動した。忍は表示された名前にさっと目を走らせてから、ジャケットの中にスマホを押しこんだ。
「出なくていいの?」
「いいよ、店の中だし」
「緊急の連絡かもしれないよ」
「いいや、いいんだ」
その後も着信は何度か繰り返され、忍はそれを無視し続けた。何か耐えているような忍の顔が、気にかかった。
「……忍兄ちゃん、大丈夫?」
芽衣は尋ねたが、
「え、何が?」
と逆に訊き返されてしまった。
コーヒーが届くと、忍は言った。
「俺、四月からこの街で料理を教えるんだ。この通りの先に、新しくカルチャーセンターができるだろう。そこで料理教室の講師やるんだよ」
「え? 忍兄ちゃんが料理の先生?」
芽衣は目を丸くした。
忍の作る料理は、焼うどんしか知らない。
忍は芽衣の疑問を見透かしたらしく、
「芽衣、俺に料理なんかできるのかって思っているだろ?」
にやりと、不敵な笑みを浮かべた。
「今はもう、和洋中一通りのものは作れるんだぜ。俺、芽衣と会わない間、料理の修行に出てたんだ。あちこちの店を回って勉強して……いつか自分の店を持つのが夢でさ。料理教室の講師は、その足掛かりってわけ」
「そうだったんだ……。すごい……」
「ありがとう。芽衣にそう言ってもらえると、すげえ嬉しいよ。料理を仕事にする。俺がそう夢見るようになったきっかけは、芽衣だからな」
芽衣は驚き、訊き返す。「わ、わたし?」
「それまでは将来のことなんて真剣に考えたことなかったけど、芽衣と出会って気付いたんだ。俺が作ったものをうまそうに食べる芽衣を見て、料理の道へ進みたいと思うようになった」
「それで、修行に出ることにしたの?」
「ああ、思い立ったらじっとはしていられなくて、高校を卒業したらすぐに料理の道へ飛びこんだ。今の俺があるのは、芽衣のお陰なんだ。芽衣がいたから、俺は自分の目指すべき道を見つけられた」
思いがけず、胸が詰まった。「……そんなふうに思ってくれてたなんて、知らなかったよ」
自分の存在がきっかけとなり、夢を見つけた人がいる。なんだか、あの頃の寂しさが報われた気がした。
「ありがとう忍兄ちゃん。わたしね、あの頃忍兄ちゃんの存在にすごい救われてたんだ。だから……わたしも少しは忍兄ちゃんの力になれてたのなら、嬉しい」
カフェを出ると、忍は芽衣は次の店に誘った。
「芽衣、まだ腹のほう余裕あるだろう? あ、金のことなら気にするなよ」
「うん。でも……」
おごられ続けるのは心苦しくて、芽衣は遠慮しようとする。
すると忍は「俺に力を貸してくれないか」と切り出した。
「カルチャースクール周辺の事情を調べてみたんだ。生活にゆとりがある世帯が多い地域なのな。確かにほら、あのマンションとかすげえ家賃高そうだし」
芽衣は忍が指し示した、通りの向こうのマンションを見る。表の樹木はよく手入れされ、ガラス扉の向こうには豪奢なライトがきらめいている。
「俺が講師をする料理教室は、ああいうところに住む奥さん連中をターゲットに、受講者の募集をかけているんだ。となれば、教える料理も平凡な家庭料理というわけにはいかない。求められているのは、華やかで見栄えもいい料理だと思うんだ。だけど、それって具体的にどんな料理だ?」
忍は歩きながら語った。
「この辺にある飲食店はどこも、地域の色に合わせている気がする。俺はそこに、ヒントがあると睨んだ。だからこの辺の店を片っ端から食べ歩いて、リサーチしていこうと思う。この地域で今、どんな料理がウケているのか」
だけど、と忍は目を伏せる。
「俺ひとりで食べ歩くには、限界があるだろう。その点、芽衣の胃袋は底なしだ。だから俺と一緒に食べ歩いてほしい。それで料理の感想を教えてほしいんだ。お願いだ芽衣、どうか、俺を助けると思って……」
追いこまれた様子の忍に、芽衣の胸は締め付けられた。
(今度はわたしが忍兄ちゃんの力になる番だ……)
「わかったよ。うまく感想とか伝えられるかわからないけど、わたしで良ければ、お店のリサーチくらい付き合うよ」
「本当か? 助かるよ。ありがとう、芽衣」
忍の声に、力がこもった。きらきらと目を輝かせる。
「じゃあ早速、次の店行こうぜ」
五分ほど歩いた先にあった、イタリア料理店に入った。
忍はさっきと同じ仕草でメニューを寄越し、「じゃんじゃん注文して、どんどん食えよ」と言う。
芽衣は眉をひそめた。
「もしかして忍兄ちゃん、さっきのカフェもリサーチのために誘ったの? なんだかやたらとわたしに料理注文させようとしていたよね」
忍が店のリサーチを手伝わせるためだけに自分を誘ったのだとしたら、悲しいと思った。再会を純粋に喜んでいるのは、自分だけなのかもしれない。
「……違うよ。確かに気になった店だから、一度入ってみたいっていうのはあったけど、あのカフェの雰囲気とか、芽衣が好きなんじゃないかと思って……。芽衣を喜ばせたかったんだ。今日芽衣を誘ったのは、ゆっくり話がしたかったからだよ」
忍は傷ついたように、表情をゆがめる。
「引っ越した後も、ずっと気にかかってた。芽衣は今頃、どうしているだろうかって。ひとりで飯食ってんのかな。もしかしたら寂しくて、泣いてるんじゃないかって……」
「忍兄ちゃん……」
(じゃあ忍兄ちゃんは今まで、わたしを心配してくれていたの?)
忍はもう自分のことなんて忘れてしまっているんじゃないか。
忍と会えなくなってから、幾度となくそんな不安が胸をかすめた。
だけど忍は、自分を覚えてくれていた。
覚えていただけじゃない。ずっと気にかけてさえくれていた。
「ありがとう」
芽衣は言った。
「ごめんね、変な言いがかりつけて」
忍は気を遣ってくれたのか、
「いいよ。俺も少し無神経なところあったと思うから」
と首を振る。それから場を仕切り直すように、
「さて、何を食べようかな……」
メニューを開いた。
それから芽衣と忍は相談して、数種類の料理を注文した。
「パスタの種類多くて、迷ったなあ」
「全部おいしそうだったね」
料理への期待から浮足立ち、会話は弾んだ。
「改めて考えると、今の状況ってすごいよな」
「すごい?」
「だってあのちっこかった芽衣が今や高校生って……俺も歳食ったなあと思うよ」
「そんなおじさんみたいな言い方しないでよ。忍兄ちゃん、まだ全然そんな歳じゃないでしょ」
「うわあ……芽衣もいっぱしの口きくようになったんだなあ……」
忍はしきりに昔を懐かしがった。特に芽衣の成長に驚いてみせた。
芽衣はくすぐったい心持ちで、耳を傾ける。
(もしかして忍兄ちゃんの中では、わたしまだ子どものイメージだったのかな?)
忍は会わない間も、ずっと自分を心配してくれていた。それなら、今はもう大丈夫だというところを見せて、安心させてあげたほうがいいんじゃないか。
「あのね、忍兄ちゃん」
芽衣は改まった調子で切り出した。
「わたし、今はもう寂しくないんだよ。ひとりぼっちじゃないの。大切な人がたくさんできたんだよ」
「大切な人?」
「うん。忍兄ちゃんも昨日うちの前で会ったでしょう? 葉子――いつも一緒にいる友達。学校では葉子と征太郎と三人でお昼ごはん食べてるの。それにバイト先の店長と奥さんは、いつもおいしいまかないを作って食べさせてくれるよ。休憩室にいると、お店のほうから常連さんたちの話し声が聞こえてくるんだ。にぎやかで、すごく楽しいよ。それから――」
叶恵の顔が浮かんだ。よれよれの部屋着にエプロンをかけて、料理をする叶恵。それから、兄の作った料理を嬉しそうに口へ運ぶ、葵の姿も。
二人とも、大切な存在だ。
「週に一度、一緒に夕ごはんを食べる兄妹がいるの。お兄さんのほうが料理上手で、彼の作るごはんを、わたしと妹ちゃんはいつもお腹いっぱいになるまで食べるんだ。だから今のわたしは、全然寂しくないんだよ」
そこで言葉を切り、芽衣は忍の表情を窺った。
忍はほっとしてくれただろうか。きっと今の自分の状況を喜んでくれるだろう。
しかし――、
「へえ、そうか」
忍は抑揚のない声で言った。
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