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追憶の果てに いち はじめ
「ねえ、覚えてる?」
車椅子の妻が、振り返ることなく眼前に広がる海に目を向けたまま、力なく訊ねる。
私は――何だい? 、と優しく聞き返す。
もう何年も続けている、妻と私の昼下がりの決まり事だ。
妻は数年前に車を運転している時に、事故に巻き込まれけがをした。けが自体は命にかかわるようなものではなかったが、脳にひどいダメージを負い、運動機能と意識に障害をきたし、車いすでの生活を余儀なくされた。何より会話による意思疎通ができなくなった。
妻は――ねえ、覚えてる? 、以外の言葉をほとんど口にしない。
最初、それに答えることが億劫であった。妻が私の話す内容をどれだけ理解しているのか、一部でも理解できているのかと疑っていたからだ。そもそも、私は妻が元気な時でさえ、妻の問い掛けにおざなりに答えていたくらいなのでなおさらだった。
しかしある日、私が妻との思い出を話したところ、普段見せたことのない、満足したような顔をして、にっこりとうなずいたのだ。その時の妻の横顔に私は救われた思いがした。その日から妻と私の追憶の旅が始まったのだ。
初めのころは、朝食の目玉焼きの焼き加減で大喧嘩したことや、私の浮気がばれて離婚危機に陥ったことなど、どう考えてみても妻にとってはいい思い出とは言い難いものもあったのだが、それでも妻はにっこりとほほ笑んでくれた。
そうしているうちに、私の心に、ある確信めいたものが芽生えた。妻との思い出が、彼女の心をいっぱいに満たしたら、妻は戻ってくるのではないかと……。そのために私はさらに妻との出来事を、どんな些細なことさえも思い出そうと努力した。そしてそれは、私の心を満たす行為でもあった。
そんなある日、私はいつものように、浜辺の駐車場からビーチに続く小径を、車いすに妻を乗せて、波打ち際まで押していった。薄雲に覆われた空から、柔らかな陽の光が射し、海風に心地よさそうになびいている妻の黒髪を、艶やかに彩っていた。
さて困った。今日は妻の問い掛けに答えるものが、まだ用意できていない。これまで、同じ話はしないようにと、気を配ってきたのだが、そろそろネタが尽きてきたようだ。
妻がつぶやいた。
「ねえ、覚えてる?」
私はこう答えた。
「君との思い出を語るのは昨日でおしまい。今日からは二人で想い出を作っていこう。さて、その初日は何が良いかな」
すると妻は、これまでになかった思いがけない反応をした。驚いた顔で私の方にゆっくり振り返ったのだ。
「あなた、今何て言ったの?」
今度は私が驚く番だった。
「どうしたんだい急に……」
妻は私の呼びかけには答えず、車いすから立ち上がると、「うれしい。私はずっとこの日が来ることを待っていたの」、と泣きながら私の体に倒れ掛かった。
私は妻の言葉の意味が分からず混乱したが、大丈夫だよ、と優しく妻の体を支えた。
しばらく妻は、私に身を預けて泣いていたが、静かに体を離すと、微笑みを浮かべて言った。
「あなたはもう大丈夫、早く私の元へ戻ってらっしゃい」
そして、私をずっと見据えたまま後ずさりして海へ入った妻は、そのまま海の中へ溶けるように消えていった。
私は、呆然と立ち尽くすことしかできなかったが、手に残った妻の温もりが私を動かした。妻の名前を叫び、海に飛び込もうとしたその瞬間、私は気を失った。
どのくらい時間がたったのだろうか……。私は目を開けようとしたが、眩しくてすぐには開けることができなかった。徐々に目が慣れてくると、見知らぬ天井がそこにあった。私は病室のベッドに横たわっていた。
目にいっぱいの涙をためた中年の女性が、私の手をしっかり握っている。その顔は妻のように思えたが、頭がはっきりせず、私は確信が持てなかった。しかし手の温もりは確かに妻のものだった。
「おかえりなさい、あなた。あなたは車を運転していて事故に合い、脳に損傷を受けて意識不明になっていたのよ。もう何年もこうしてベッドの上で寝ていたんだから。お医者さんから、脳が刺激され、意識が回復する可能性があるから、声を掛け続けなさいと言われて、こうして毎日、いろんな二人の思い出を話し掛けてたの。『ねえ、覚えてる?』って」
(了)
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