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 庄司さんが去った後、山田さんは何も言わず席に戻り、残っているコーラをちびちびと飲み始めた。 「や、山田さん、ごめんなさいね。嫌なことに巻き込んじゃって」  おばあちゃんが頭を下げる横で、私もそれに倣った。 「気にしなくて大丈夫。それより、次の曲入れてくれないか」 「あ、ああ。そうね。えっと、次の曲は……」 「つむじの溜息で」 「つむじの、ね」    おばあちゃんが珍しくおたおたしながらリモコンを操作していると、佐々木さんが、 「よし! ここは景気づけにわしも歌おうか! なあ、山田さん、デュエットしてもいいかい?」  山田さんは黙ってうなずき、二人はリクエストした曲を歌い出した。山田さんの音読歌唱は佐々木さんの朗々とした歌声にかき消されている。  まばたきみたいにあっという間の出来事で、今はまだ恐怖も怒りも湧いてこない。ただ、庄司さんに掴まれた皮膚の感触だけは残ってしまい、無性に気持ち悪くて手を服で何度も拭った。 「大丈夫? 良かったらこれ使って」    加藤さんが携帯用の除菌シートを渡してくれる。私はそれを受け取り、指と指の間を念入りに拭いた。 「さっきはごめんなさいね、私ったら何もできなくて」 「いえ」 「あの男の人、本当に嫌な感じだったわね。二度と美佳子ちゃんに会ってほしくないわ」 「私も二度と会いたくないです」 「それにしても、さっきの山田さん、かっこよかったわね」    まるで恋愛トークをする同級生のように加藤さんが声を潜める。 「普段はあまりお話されないので、少しびっくりしました」 「山田さんね、昔は人前でお話をする仕事をしてたんですって」 「人前で話す?」 「そう。詳しくは知らないんだけど。でも、もしかしたら今日のも、その仕事の名残かもしれないわね」    人前に出る仕事なんて多すぎて全然見当もつかないし、そもそも話をすることを仕事にしていた山田さんを想像できない。  でも、もしそれが本当なら、私みたいに助けられた人は他にもいるのかもしれない。 『忘れないでね 私のことを 覚えていてね 私のことを』  山田さんと佐々木さんが気持ちよさそうに歌っている。    ーー私はお父さんのこと絶対に忘れないよ。  そう心に誓い、新しいコーラの準備に取り掛かった。
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