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一
『ねぇ 覚えてる? 私たちが出逢ったあの岬 貴方の親指の形に似た灯台』
何回聞いてもよく分からない歌詞が、モニターを流れていく。海を連想させる歌なのに、後ろの映像では男女が公園で楽しそうに散歩している。ミスマッチな組み合わせをぼんやり見ながら私はコップに氷を入れた。カラン、カラン、カラン。一個、二個、三個。
『ああ またあの場所で 親指岬で 会えたなら』
歌が終わった。
コップにコーラを注ぐ。しゅわしゅわと炭酸が弾ける音が微かに上がってきた。
「はい、どうぞ」
歌い終わって席に着いた山田さんの前に出すと、「ん」と短く返事をし、ちびちびと飲み始めた。
「いやぁ、山田さんの歌いっぷりは相変わらずだねぇ」
「そうね、いつ聞いても心に迫ってくるわ」
佐々木さんと加藤さんが自分たちの間に座った山田さんを褒めたたえる。
正直、私は山田さんの歌を上手いと思ったことはない。音程どころか抑揚もなくて、モニターに出ている歌詞をリズムに合わせて読んでいるだけだ。小学生の時、国語の授業で先生に指名されて教科書を渋々音読していたクラスメイトを思い出す。
「ねぇねぇ、美佳子ちゃんはどんな歌が好きなの?」
カウンター越しに加藤さんが好奇心旺盛な目で見てくる。
「特にないです」
「えー、そうなの? 一つくらいあるんじゃない?」
あるにはあるが、言ったところでたぶん知らないだろう。かといって、お客さんが振ってくれた話題を無碍にするわけにもいかない。
「えっと、カーズカーズっていうバンドが好きなんですけど」
「あら、知らないわ」
やっぱり。
「美佳子、これ出しておくれ」
奥のキッチンスペースから、おばあちゃんが大きなお皿を持って現れた。お皿の上にはおばあちゃんお手製のサンドイッチが綺麗に並んでいる。私はそれを受け取り、カウンターに座る三人の前に置いた。
「おお、ちょうど腹が減ってたんだ」と佐々木さんがタマゴサンドを両手に持ってかぶりつく。加藤さんと山田さんもそれに続いてお皿に手を伸ばした。美味しそうに咀嚼する三人を、おばあちゃんがさも当然といった風に眺めている。
ここは、おばあちゃんが経営しているカラオケ喫茶。お店の名前は「母那里座」と書いて「モナリザ」と読む。昔のおばあちゃんは彼女に似ていたらしく、そのまま店名に使ったらしい。だけど、今の姿――紫色の髪にピンクの口紅――を見る限り、その面影はない。
お店は毎日午前十一時から午後五時まで営業していて、私が手伝えるのは学校が休みのときだけ。
「相変わらずせつ子さんのサンドイッチは美味いねぇ。いやあ、こんな美味いもんを作れる嫁さんがほしいよ」
佐々木さんの両手から早々にタマゴサンドは消え、今度はハムサンドに手をつけている。
「何言ってるの。しっかりしたお嫁さんがいたじゃない」
「でもなぁ、今は家に帰っても一人だからなぁ」
「あんたがしっかりしてれば、お嫁さんも出ていかなかったでしょうに」
「がはは、確かに」
佐々木さんは、立派に張り出した大きなお腹をさすりながら、豪快に笑った。
「ほら、美佳子ちゃんもお食べなさいよ」
加藤さんがお皿を持ち上げて私に差し出してくれる。
お客さんに出したものなのに食べてもいいのかな。普通は駄目だよね。でも、断るのも失礼かもしれない。
何も出来ずに固まっていると、おばあちゃんが「せっかくだからいただきな」と言ってくれた。私は「いただきます」とハムサンドを取った。
「美佳子ちゃんって今いくつなの?」
「十七、です」
「若いうちはたくさん食べなきゃ。我慢は駄目よ。今時の子は細いのがいいって風潮みたいだけど、元気でいなくちゃ意味がないのよ。健康なのが一番の美しさなんだから」
加藤さんはお店にくるといつもこんな風に私に構ってくれる。娘さんが一人いるそうだが、今は結婚してローマに住んでいるらしく、最近は全然会えていないそうだ。
「山田さん、次はどの曲を入れる?」
佐々木さんと加藤さんの間で静かに座っている山田さんに、おばあちゃんがカラオケのリモコン片手に話しかける。
「いつもので」
「はい、いつものね」
おばあちゃんは何も見ずに慣れた手つきで番号を入れると、画面に<右肩の涙>と表示された。山田さんはマイクを持って立ち上がり、先ほどのように淡々と歌詞を読み上げる。
さっきは<親指>で、次は<右肩>。<つむじの溜息>なんて曲もあったっけ。
山田さんは歌う以外ではあまり声を発さない寡黙な人だ。だけど、リクエストする曲はどれも変なものばかりで、どうやってこういう歌を見つけたのか分からない。
佐々木さん、加藤さん、山田さんは見た目も性格も三者三様だ。だけど、三人は馬が合うようで、ほぼ毎日三人揃って来店してくれる。お店にとって大事な常連さんたちだ。
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